2013/04/14
御岳城/東京都青梅市
久しぶりのお城日和な週末!じっとしている訳がありません。・・・ということで、今回は奥多摩の城跡を訪ねて回りました。
その第1弾が御岳城跡です。
御岳城のある御岳山にはケーブルカーで登りました。山頂までクルマでも登れますが、許可されたクルマしか通れないので。なので、しぶしぶ駅の脇にある駐車場に停めることに。
しっかし・・・駐車場代高いT_Tバイクで500円も取られるなんて。普通「こっちこっち」と呼ばれてタダで停めさせてくれる所ばっかなのに。ちなみにクルマは1000円でした。

▲ケーブルカー
ケーブルカーは往復で1090円です。こんな山奥ですが、バッチリPASMOでも改札を通れます。比高400mを片道6分で登り下りしてくれるなら、、、と自分に言い聞かせました。歩いたら何時間かかるんでしょうかね?
ちなみに、ケーブルカーから景色を見ていると、歩いて登ってる方も結構いました。結構いたついでに、ケーブルカーも満員でした。これだけ人が来るからこそあるんでしょうけどw

▲駅前にある案内図
ケーブルカーを降り「神社どこ?」で見た案内図。もちろん堀切や土塁の位置など描かれていません


▲参道の途中から見た遠景
参道は舗装されてほぼフラット。これなら楽チン♪とすっかりハイキング気分です。都内ではすっかり葉桜ですが、標高900mの山上では咲き始めでした。途中チラっと見えた「城」の遠景。逃さずバッチリ撮りました。

▲ビジターセンター
杉林に覆われていた参道の視界が開けると、ビジターセンターがあります。ここはかつては学校だったのだとか。これだけお土産屋さんあると子供もそれなりに居ますよねw
この裏手に土塁と竪堀があるらしいです。周りをウロウロしたのですが、裏に回り込む道が見つからず・・・センター自体が郭っぽかったので、無理やり納得して先へ進みました。

▲お土産屋さん
それにしてもよくこんな山の上に!という位建物が建ってます。それはまるで立ち並ぶ櫓・・・に見えてしまうのは症状が重いからでしょうか。でも、登城路脇にこうして櫓を並べれば・・・とタイムスリップ気味に。この辺から上り坂になります。

▲鳥居と山門
坂の傾斜は次第にキツクなり始め、皆さんヒイヒイ言い始めます。その脇をスイスイと追い抜く私・・・・山城ばかり歩いている内に足腰が強くなってしまったようですw

▲参道は更に続く
立派な山門を見て「着いた!」と喜んだのも束の間。山門をくぐると容赦ない坂道が参拝者達を待ち受けています。
しかしこの山門、食い違い虎口に見えてしまいました。神社の山門は普通、参道に対して真っ直ぐなので。わざわざ道を屈曲させている辺り・・・とついつい理屈をこねてしまいますw

▲御岳神社
駅から20分でようやく神社到着!ここが本郭の跡でしょうか。高い山の上にあって、さらにひと際高くなっています。ここまで登ってきた兵に最後の試練w
この裏の尾根に堀切がある(らしい)のですが・・・裏に回り込む道が見つからず。諦めて山を下ることに


▲本殿脇に畠山重忠像
しかし!本殿から回れ右をするその途中!立派な武将の像が目に飛び込んできました。銘には「畠山重忠」の名が。何でここに?とは思いましたが・・・帰ってからパンフを見て納得しました


▲御岳山からの眺め
さすが標高900mなので眺めが素晴らしい!・・・といえるのがケーブルカーの駅の脇にある展望広場くらい。あとは都心方向は木々で見ることができませんでした。
さて、帰りのケーブルカーを降りる際に、運転手のお兄さんに話しかけられました。「御岳城はわかりましたか?」と。歴史が好きな方のようで、麓にお城や古戦場が沢山あると教えてくれました。なぜ城跡を見に来たとわかったのでしょう。おでこに「城」とは書いていないのに・・・w
◆歴史◆
御岳城は御岳神社そのものであり、大昔から人々の信仰を集めました。736年に僧・行基が御嶽山蔵王大権現として勧進したのが始まりです。

▲無料パンフより
平安時代末の1191年に、畠山重忠が赤糸威大鎧を寄進しています。「神の纏う鎧」として神社で大切に保管されており、国宝に指定されています。『新編武蔵国風土記稿』では、この時に重忠が城を築いたとされています。
また、1416年の起きた上杉禅秀の乱では、関東管領・上杉憲基が陣を敷いたそうです。参道を登っている時に見た「上杉平」の地名は、ここに由来するのかもしれません。
その後、奥多摩一帯を支配した三田氏や後北条氏、徳川家康の手厚い保護を受けてきました。明治時代の神仏分離と廃仏毀釈によって、御嶽神社と改称されました。
ここにお城があったという説は、近年まであまり見られなかったようです。標高が900mを越え、街道からも離れているため交通の要衝という訳でもありません。神社には必要ないお城としての遺構もありますが、全体的に防御力があるとは考えにくいです。
人々の信仰を集めて何かと注目されるので、自己防衛のため武装化したという説が有力です。平安時代末期(1190年頃)から南北朝時代(1350年頃)にそのような傾向があったそうです。
ですが、1979年に刊行された大著「日本城郭大系」にも記載されていません。もしかしたら、近年インターネットが普及したため、誰かがお城だと言い始めたのかもしれません。それを見て私みたいなのが次々と訪れ、遺構を見ては書きたてているのかも・・・w
所在地:東京都青梅市御岳山
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