2016/01/26
国峰城/群馬県甘楽町
国峰城は南毛の大領主・小幡氏の居城でした。訪問日は2014年11月23日です。

▲道案内
地図で見ても、山奥にある感じがします。下に貼った地図でも、かなり長い距離の道案内を付ています。この地図の青いラインの一番上の所に、この案内があります。ここに辿り着ければ迷うことはないと思われます。でも、書いてある文字は「国峰城跡入口2.5km」なんです。

▲城山入口の案内
細い道を更に走った突き当たりの手前です。はじめは見落として真っ直ぐ進み、民家で行き止まって???になりました。ちょっと戻ったココで、赤丸の看板の隣に地味にちゃんと案内が出ていました。気を取り直して道を左へ曲がろうとしましたが・・・

▲老朽化した橋
そこにはバリケードがあり、車両通行止めと書かれています。・・・虎模様のこいつの名前は今知りましたけど

ついでに値段が2000円という事までwww
軽は通行可と書かれていたのですが、その先の道はかなり荒れた様子。綺麗な道しか走れないオンロードバイクで乗りつけるのは危険と判断し、ここから歩きました。下の地図で、ラインが茶色に変わっているのはココからです。
※ここから主郭まで徒歩26分でした

▲御殿平
車で走るのはちょっとアレな道を歩くこと13分で、ここに辿り着きます。未舗装な上にかなり凸凹なので、ジープみたいな軽の四駆だったらココまで来れそうです。写真の撮影日時を見てこれを書いていますが、ここが丁度真ん中だったんですね。ここから先はガッツリ山道なので、そちらの方が長く感じましたけど。

▲南側の道へ
御殿平の看板から見て左側が登城路です。こちらの道も車道ではありますが、更に荒れています。路面の砂利が柔らかいので、あっさりタイヤがハマリそうな感じ。ここは四駆でも進入するのはやめておいた方がいいです。この道に入ってすぐ見えるのがコレ。堀切の跡でしょうか?山の斜面を削って進路を限定しようという雰囲気があります。・・・林道通す時に削っただけかもしれませんが


▲ここから階段
そんな林道を歩き、カーブを曲がりきった右側にこの案内があります。ようやく山城らしい道になりました。・・・こういう道が好きな訳ではありませんけど


▲主郭の一歩手前
ジグザグ山道を登り、開けた所でひと休み。ただ、そこから上が見えないので、ここが主郭のすぐ下の郭のようです。登ってみたら、その先にすんごい急な坂が見えたなんてしょっちゅうですけどwここへ攻め寄せた兵士達も、ココで呼吸を整えようとしますよね?それを上からウワァァァ(# ゚∀゚)って感じで攻撃する構造でしょうか。なんて、既に妄想モード全開です(´Д`)v

▲主郭
ここが主郭だと嬉しいな、でも坂が見えたらガッカリするな、などと意を決して登ると・・・そこには文字がビッシリ書かれた白い板が。かつて、そこが主郭と思って白い板を見たら全然関係無いヤツだった事もありますけど。でも、周りを見渡してもこれ以上高い所も無く、板にはお城の事が書かれていました。ということで、主郭到着です

あちこちでぬか喜びしまくってると、だんだん疑い深くなるもんですね


▲図 拡大表示
その白い板には、お城の歴史や構造が詳しく書かれ、このような素晴らしい図まで


▲祠と城址標柱
主郭は山頂の平地といった感じで、特に「お城」という感じは無し。さっきの説明板と、祠の脇に立て掛けられたこの標柱が雰囲気を醸しだしています。木の標柱は年月が経つと腐っちゃうので、定期的に交換して欲しいですね。
◆歴史◆
築城年は不明です。
国峰城は小幡氏の城でした。小幡氏は児玉党の出身で、平安時代末頃に甘楽郡小幡の郡司となった秩父行頼を祖とします。ただし、鎌倉時代は御家人ではなかったようで、動向はわからず。室町時代初期に足利尊氏に従っていた記録があるようです。その後、鎌倉公方と上杉氏が争うようになると、山内上杉家に従うようになりました。この辺りの動向は周辺の土豪達と同じです。
1546年、河越夜戦で後北条氏が圧勝しました。
それまで争っていた古河公方と両上杉家が組んで、後北条氏を潰しに掛かりました。しかし、河越城での戦でまさかの大逆転があり、後北条氏が圧勝しました。これにより、関東の勢力地図が大きく書き変わりました。
1548年、小幡憲重が後北条氏に寝返りました。
この背景には凋落の一途を辿る山内上杉家中での、長野業正との対立もあったようです。
1549年、武田晴信にも仕えるようになりました。
この頃の武田晴信は北条氏康、今川義元と三国同盟を結んでいました。背後を気にしなくても良くなった武田晴信は、信濃への侵攻を本格化させました。しかし、武田晴信は前年に上田平の戦で村上義清に敗れ、多くの重臣を失いました。村上義清の支配する小県郡・佐久郡と小幡氏の勢力圏は隣り合っています。同盟関係にある後北条氏からの援軍的な意味合いもあったのかもしれません。
1560年、長野業正に乗っ取られました。
小幡家中の不和を利用し、対立していた長野業正が国峰城を乗っ取りました。小幡憲重が草津温泉へ出掛けている隙に、小幡景定にクーデターを起こさせたのです。城を失った小幡憲重とその嫡男・信貞は、武田信玄の甲斐へ逃れました。
1561年、武田軍が国峰城を奪還しました。
武田信玄による西上野侵攻が本格化し、国峰城を奪還しました。これは、上野国の雄・長野業正が没したことによると思われます。以後、小幡憲重・信貞父子は、武田軍の西上野侵攻の先鋒となります。
翌年には北の嬬恋辺りの鎌原氏と羽尾氏の争いに乗じて、真田幸隆が侵攻を開始しました。両者は競い合うように、上野国を西から侵食していきました。
1582年3月、武田勝頼が滅びました。
織田信長が信濃に侵攻し、その勢いで武田勝頼を滅ぼしました。小幡信貞は上野国へ進出してきた織田家臣・滝川一益に従いました。
1582年6月、天正壬午の乱が始まりました。
本能寺の変により織田信長が没し、旧武田領では織田家臣追放の動きが活発になりました。上野国も例外ではなく、この動きに便乗した後北条軍が滝川一益を破りました。以後、小幡信貞は北条氏直に降伏し、その家臣となりました。
1590年、廃城となりました。
仕えていた後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされました。この時、小幡信貞は小田原城に篭城しており、国峰城は北国勢により攻め落とされました。戦後、奥平信昌が当地の領主となりましたが、宮崎城に入ったため国峰城は廃城となりました。小幡信貞は旧交のあった真田昌幸を頼り、塩田平に隠棲して1592年に没しました。子孫は松代真田家に仕えています。
所在地:群馬県甘楽郡甘楽町国峰
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