2016/01/21
宮野城/群馬県みなかみ町
宮野城は猿ヶ京温泉にありました。訪問日は2014年4月19日です。

▲遠景
東京都心では桜が散る頃ですが、新潟に近いこの辺りはようやく咲き始めでした。まだまだ肌寒いそんな時期の、ようやく陽が昇るような時間(AM5:00前)に来ています。我ながらちょっとアレですw
宮野城は赤谷湖に北から伸びる半島状の所にありました。とは言っても昭和になってから造られた人工の湖なので、当時は立派な山城です。写真は赤谷湖東岸にある、国道沿いの某コンビニから撮っています。超寒いので、熱々の缶コーシーをしばいてからの訪城となりました。

▲湖城閣
城跡には温泉宿が建っています。その名も「湖城閣」。どうせならお城風の門がいいな♪あまりに露骨だと、それはそれで引きますけどw

▲土塁と説明板
たしかこの辺が城跡だよな~とウロウロしていたら、ありました!こんなマイナーなお城に興味がある方なら、もうわかりますよね?w

▲反対側から見た所
温泉宿側から外を見た所です。土塁の内側に宿があるんですね!

▲堀跡
パッと見ではガッツリ近代化された街並みですが、よく探せば結構残っているものです。ハッキリわかったのは土塁と堀です。他にも何となく段差がある?というのは、そこら中で感じられました。
◆歴史◆
築城年は不明です。
長尾景虎(=上杉謙信)が関東へ出陣した1560年には、既に宮野城があったようです。当地は、越後から三国峠を越えて上野に入る時に必ず通る要衝でした。長尾景虎が宮野城に宿泊した際に見た夢が、猿ヶ京の地名の由来という説があります。しかし、猿ヶ京温泉のサイトでは、猿の恩返し的な話が書かれていました。興味のある方は探ってみて下さいw
1574年、尻高義隆が城主となりました。
尻高氏は、吾妻郡にあった尻高城を本拠としていました。しかし、信濃から進出して来た真田氏に追われ、本拠の尻高城が陥落。城主・尻高景家は討たれ、嫡男・尻高義隆は越後へ逃れました。この時に宮野城を与えられたものと思われます。
1578年、御舘の乱で戦いがありました。
上杉謙信が没した後、2人の養子・景勝と景虎が家督を巡って争いました。宮野城は、坂戸城を本拠とした上杉景勝に味方したとみられます。沼田城の河田重親は坂戸城を攻めようと越後に向かいますが、宮野城で撃退されています。後に後北条軍が大挙して攻め寄せたため、宮野城の将兵は一時退去しましたが・・・上杉景勝方は、後北条軍を坂戸城から先へ進ませなかった事が勝因とされています。翌年、上杉景虎が鮫ヶ尾城で自害すると、再び尻高義隆が宮野城に配置されました。
1580年、真田昌幸に攻められました。
後北条氏から沼田城を奪った真田昌幸は、周辺に勢力を拡大しました。城主・尻高義隆は頑強に抵抗しましたが、明らかに劣勢だったようです。すると、尻高義隆の妻の甥で真田軍に居た恩田伊賀から書状が届きました。そこには開城を促す内容だったそうで、尻高義隆は城兵の無事を条件に開城しました。尻高義隆は後閑(みなかみ町)の舒林寺へ移り、そこで自害したそうです。
その後の宮野城についてはわからず・・・
1582年に武田勝頼が滅んだ時、真田・後北条氏ともに織田家臣・滝川一益に従いました。しかし、本能寺の変により僅か3ヶ月で織田家の支配は終わり、滝川一益は伊勢へ逃れました。その後の沼田の地は真田氏と後北条氏が争い、上杉氏も両家と敵対関係にありました。上杉景勝は1584年、真田昌幸の支配地である吾妻郡の一部を占領しています。そのため、真田昌幸が越後勢から沼田領を守る要衝にある宮野城を手放すとは考えにくいです。
真田昌幸はこの頃、徳川家康に従っていました。その徳川家康は、天正壬午の乱で後北条氏と和睦した際、沼田領を渡す約束をしました。真田昌幸はこれを3年ほど無視し続けていましたが・・・いよいよ強く引渡しを迫られると、次男・信繁を人質として上杉景勝の家臣となりました。その後は豊臣秀吉の家臣となっており、この頃に宮野城は完全に役割を終えたと思われます。
所在地:群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉
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