2016/01/17
丸岩城/群馬県長野原町
丸岩城はその名の通り、丸岩にありました。訪問日は2014年4月12日です。

▲東から見た丸岩
群馬の吾妻地方には、妙義山をはじめとして岩石ゴツゴツな山が沢山あります。その中でも、ひと際目を引くのが丸岩山です。個人的には妙義山



▲西から見た丸岩
反対側から見た丸岩山です。こちら側も切り立った岩肌が露出しています。しかも、ほぼ垂直。この上にお城があったなんて、にわかには信じ難い山です。

▲登城口
でも、登れます!ヘアピンカーブを曲がり切った所から、丸岩の方へ歩いて登れるルートがあります。ヘアピンカーブだらけですが・・・

▲案内
目印はコレです


▲登城路
いったいどんな道を登るのかとドキドキしましたが・・・南隣の山と尾根続きになっていて、ロッククライミングなんてしなくても大丈夫です!ただ、道はこんな感じで殆ど見えません


▲ニホンカモシカ
群馬の山城巡りをしていると、ほぼ毎回遭遇するアニマルです。熊よけの鈴を鳴らしながら歩いてても、10mくらい先で急に走り出します。野生動物なのに、なんだかちょっとおっとりしています。

▲登り切った所にある物
そんなこんなで斜めに登る事24分で、こいつを拝むことができましたヽ(´∀`)ノ厳しい風雪にさらされてこうなったのか、はたまた取り付けた方が大雑把なのか。・・・どうでもいいですけどwww

▲主郭
周りをキョロキョロ見回しても、他に平らな場所は無いのですが・・・やはりここが城跡なんでしょうね?外周を低っくい土塁状のものが囲んでいるだけで、堀っぽいものは見当たりません。遠目には「うわ、何て所に居やがる」と攻める気が起きないだけでも効果はあるかもですが。登城路がバレて攻めて来られたら、逃げ場は全くありません。

▲腰郭?
なんて考えてキョロキョロしてたら、ちょっと下に腰郭っぽいのが見えました。ただ、その下は断崖絶壁。角度は急で、掴めるのは頼り無さげなひょろい木ばかり。「お前、ちょっと下りて来い」って言われたら、全力でクビを横に振り続けます

◆歴史◆
永禄年間(1558~70年の間)、羽尾幸全により築かれたとされます。
城というより、見張り台という方が正しいのかもしれません。ここからは西~北~東の街道が丸見えです。武田軍が岩櫃城へ攻めて来たら、ここから狼煙を上げればすぐに伝えられます。・・・という事で、羽尾幸全がココを使うとしたら1562~63年の間しか考えられません。
この辺りの出来事をザックリ並べると
1550年代、羽尾幸全が鎌原幸重と境界を争うようになりました。1562年、羽尾幸全が岩櫃城の斎藤憲広の力を借り、鎌原城を攻め落としました。
同年、鎌原幸重は真田幸隆の援軍を得て、鎌原城を奪還し、羽根尾城と長野原城を奪いました。同年、真田軍が引き上げると、斎藤軍が羽根尾城、長野原城を奪還。1563年、武田軍が羽根尾城、長野原城だけでなく、斎藤氏の本拠・岩櫃城を攻め落としました。
岩櫃城陥落後、斎藤憲広は越後へ逃れました。羽尾幸全については諸説ありますが、越後へ逃れた可能性があります。
1584年、上杉軍により攻め落とされました。
1582年、武田勝頼滅亡と本能寺の変が立て続けに起こり、信濃・甲斐は大混乱に陥りました。この時、徳川家康と北条氏政、上杉景勝らが、広大な空白地を巡って争いました。
1584年に上杉景勝が岩井備前守に宛てた手紙に、丸岩城を乗っ取った事が書かれています。当時、上杉景勝は北信濃の地を巡って、徳川家康に従う小笠原貞慶と争っていました。ここに真田昌幸が入ると厄介だったため、上杉景勝は背後の吾妻郡に目を付けました。上杉軍は信濃国高井郡の須田信正と市川信房を主力とし、丸岩城に羽尾源太郎を入れました。上杉景勝はコレを受け、飯山城代の岩井備前守にサポートを要請したのでした。
真田昌幸は翌年、一時的ではありますが、上杉景勝に従った時期があります。おそらく、この時に上杉軍に奪われた吾妻郡の領地を返してもらったものと思われます。その後の丸岩城についてはわかりません。
所在地:群馬県吾妻郡長野原町横壁
群馬県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント