2016/01/17
松井田城/群馬県安中市
松井田城は群馬を代表する大城郭の1つです。訪問日は2014年11月23日です。

▲登城口にある案内図(拡大)
図中右上に赤枠で囲んだ所にある案内図です。東西1.5kmにも及ぶ大城郭ということが、この図からもわかると思います。色々読むと元々は2つのお城だったようで、東西で構造が異なっています。東側が細尾根を堀切で断ち切った感じ、西側が山をがっつり削った感じでしょうか。

▲補陀寺
まず最初に訪れたのは、図中左下にある補陀寺です。ここは城主・大道寺政繁の居館があった場所だそうです。国道沿いにありますが、石積みでつくられた段差がそれっぽいですね!

▲お寺の前にある説明板
上の交差点から西側にお寺の門があり、その脇に松井田城の説明板があります。平成17年に設置されたようですが、すでに剥がれかかっています


▲入口
さて、お寺からバイパスへ入り、次の出口を出てぐるっと回った所が入口です。・・・図には点線でいっぱい道が描かれていますが、唯一実線で描かれた道を選びました。道が分かれる所に案内があるので、迷う事は無いと思われます。

▲駐車場の入口
道をズンズン進んで行くと、急に未舗装になる所があります。あぁ~あ、ここから歩きか。。。なんて思っていたら、ここが駐車場の入口でした。あとちょっとなので、舗装して欲しかったです。砂利がコロコロの坂道をバイクで走ると、いともあっさりコケますからね


▲堀切
駐車場手前の舗装部分にバイクを停めて、いざ城内へ!すると、あっと言う間に何やら白い説明板が現れます。ここに堀切があるのですが、写真だとわかりづらいですね


▲門跡?
さらに進むと、今度は道を狭めた箇所も。手前に「門跡」の案内が何度もあったので、ここが門跡だと思いました。私的には門があったと思います。

▲門跡
上の門跡っぽい所から先に、「門跡」の説明板が設置されている所がありました。ここは道を曲げて虎口にした感じがします。ここまで来ると、主郭はもうすぐです!

▲本丸と上居一の丸の間の堀切
さっきの門の所からすぐ、こんな光景が現われます。ここが郭と郭の郭の間にある大堀切です。「本丸」と「一の丸」って同じ意味だと思うのですが、呼び名と思うことにしておきます。そんな私は、豊織系以外のお城では「主郭」なんて書きますけどwどれもお城の中心部であることには変わりありません。

▲主郭にある虚空蔵菩薩の祠
主郭内部は削平された広大な空間といった感じ。きっと外縁部には土塁があるのかもしれませんが、見ていません。主郭内でちょっと高い所に、この祠があります。あとはただの雑木林です。

▲主郭から見た2郭との間の堀切
再び戻ってさっきの堀切を上から眺めた所です。やっぱり、この高さと幅のある感じが堪りません


▲馬出し
堀切を越えて、反対側の「上居一の丸」側にある馬出しも見て来ました。馬出しというと立派な土塁があるんだろうなぁなんて期待していましたが・・・
こんな感じですwきっと往時はもっと高く鋭かったのでしょうけど。現在残っている遺構は、後北条時代のものです。案内図を見ていると、西側が大手口だったと思われます。馬出しがここにあるのも、お城が西に備えた構造だからなんだと思います。
◆歴史◆
安中氏により築かれました。
安中忠親が1487年に越後の新発田から移って来たそうです。この時、松井田に「小屋城」を築いたとされます。小屋城は後述の「諏訪城」と区別するため「西城」と書かれています。
松井田城の城域内には、これとは別に「諏訪城」があったとされます。諏訪城は松井田諏訪氏の居城とされています。この2つの古城が今のどこら辺なのかは???です

この年代の関東では、山内上杉顕定と扇谷上杉定正が争っていました。(長享の乱)山内上杉顕定は越後上杉家の出で、この戦の際には実家から支援を受けていたそうです。推測ですが、松井田に元居た勢力が長尾景春か扇谷上杉家に寝返り、領地を追われたのかも。そのため、山内上杉氏が越後から有力武将を呼び寄せたのかもしれません。安中忠親は後に約6km東に榎下城を築き、そちらを本拠としました。
1560年頃、安中重繁(忠成)により大改修が行われました。
これは、武田信玄による西上野侵攻に備えるためと思われます。(武田信玄は1559年に信玄と号したとされます。晴信期と重なるので「信玄」で統一します)武田信玄は1547年に信濃国佐久郡の内山城、翌年には同郡の志賀城を攻略しました。この2つの城は上野国との国境近くにある城で、山内上杉家に従っていました。佐久郡を平定した武田信玄は西へ進み、村上義清と戦いました。村上義清を越後へ追い、佐久郡が安定した頃に東へ矛先を向けました。
その契機となったのは、山内上杉憲政が後北条氏に追われて越後へ逃れた事と思われます。これにより、西上野や吾妻郡が山内上杉氏の支配から外れ、後北条氏も未着手でした。1550年代後半から、武田信玄は箕野城の長野業正と何度か戦っています。しかし、長野業正は戦上手だったため、武田軍はいずれも撃退されたそうです。
1561年、その長野業正が没しました。その死は隠されていたといいますが・・・同年、高田氏の菅原城が武田軍により攻め落とされました。地図で見ると、松井田城のすぐ南です。武田信玄が西上野に攻めて来そうだと察知した安中重繁が、防衛拠点として改修しました。これを「松井田城」の築城とするのが一般的です。
1562年、安中重繁が武田軍に降伏しました。
安中重繁は松井田城、嫡男の安中景繁が安中城に篭城しました。子の安中景繁は早い段階で降伏しましたが、父の安中重繁はかなり抵抗したそうです。そのため、降伏後は領地を没収され、強制的に隠居されられたそうです。家督は安中景繁が継ぎ、申継衆の甘利信忠の配下になりました。松井田城には武田軍が入り、内山城代の小山田虎満・昌成父子が城番を務めました。
1575年、安中景繁が長篠の戦で討死しました。
安中景繁は武田勝頼に従い、織田・徳川連合軍と長篠の戦で討死しました。この時、安中一族は誰一人帰って来た者がおらず、安中城は廃城になりました。
1582年3月、武田家が滅び、織田家の城となりました。
織田信長により武田勝頼が滅ぼされました。城番を務めていた小山田昌成は、高遠城の戦で討死しました。そのため空白地となり、一時はすぐ東の後閑氏が占拠しました。しかし、関東へ進出した滝川一益に攻められ退去しています。後閑氏は後北条氏に従うようになり、松井田城には織田家臣・津田秀政が入りました。
1582年6月、後北条氏の城となりました。
武田勝頼を滅ぼしてすぐ、今度は織田信長が謀叛に斃れました。すると、武田家旧領では反織田の動きが活発となり、織田家臣は領地を放棄しました。そのため、領地を接する徳川家康、北条氏政、上杉景勝が切り取り放題の状態になりました。上野国には後北条軍が攻め込み、滝川一益を神流川の戦で破りました。松井田城には後北条氏の重臣・大道寺政繁が城代となりました。現在見られる遺構は、大道寺政繁により改修された時のものが殆どです。
1590年、廃城となりました。
豊臣秀吉による小田原征伐で、前田利長率いる北国勢に攻められ落城しました。降伏した大道寺政繁は豊臣軍の先鋒となり、北条方の城を次々と撃破。八王子城攻めでは秘密の抜け道を豊臣軍に教え、自ら先頭に立って奮戦したそうです。しかし、戦が終わると居城である川越城で切腹を命じられました。松井田城も、この戦が終わると廃城となりました。
所在地:群馬県安中市松井田町
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