2016/01/17
稲荷城/群馬県東吾妻町
稲荷城は土塁や堀などがかなり良い状態で残っています。訪問日は2014年4月13日です。

▲稲荷神社
稲荷城へは稲荷神社から入ります。道の角にこんな感じであります。駐車場はありません。

▲民家の裏
稲荷神社から畑の脇を通り過ぎると、踏み跡が左へ曲がります。民家の裏をなぞるような感じで進みます。

▲虎口
数十m程真っ直ぐ進むと、右側の雑木林の中にこんな感じで虎口が見えます。城キチさんなら、きっとセンサーが感知してくれることでしょう。ここまで来たら、あとは藪だろうが何だろうが真っ直ぐ進むだけです!

▲土塁と堀
虎口の目の前に来ると、意外に規模が大きくてビックリします。土塁は高さ3mほどあり、その脇にはちゃんと堀も残っています。

▲堀
ぐるっと堀を堪能ヽ(´∀`)ノ
いい状態で残っています。

▲主郭
周囲の堀を楽しんだ後で、デザートの主郭へ。土塁でしっかり囲まれています


▲主郭
さっきの反対側から見た所です。奥の土塁の向こう側に2郭があり、その間に空堀があります。・・・ということで、往時の進入路は奥からだったという事ですね。
◆歴史◆
築城時期は不明です。
鎌倉時代にこの地方には吾妻氏が居ました。源氏と平家が争った頃から居たようで、1221年の承久の乱で吾妻助光が討死しています。その後は一族の下河辺氏が名跡を継いでいます。この頃の吾妻氏がどこに館なり城を構えていたのかは不明です。
室町時代に入り、1405年に斎藤憲行が吾妻郡にやって来ました。越前から来たとされ、それまでの吾妻氏系斎藤氏に取って代わったそうです。斎藤憲行には6人の子が居り、五男・大野憲基に稲荷城が分け与えられました。ということで、南北朝時代には既に稲荷城はあった事になります。
1438年頃、大野憲基が斎藤一族の実権を握りました。
何があったのかは???です

(1)兄達が亡くなり、大野憲基が一族の長老になった?
(2)嫡流の斎藤氏に跡継ぎが生まれなかった?
(3)永享の乱により一族が分裂し、大野氏側が勝利した?
・・・全部勝手な推測です。
大永年間(1521~27年の間)、大野氏が滅ぼされました。
この頃の大野氏は岩櫃城を居城としていました。斎藤一族の中心が岩櫃城だったからだと思います。大野氏がいつから岩櫃城を居城にしていたのかはよくわからず・・・一族を仕切った大野憲基か、勢力を拡大した孫の大野義衡でしょうか。この頃は大野憲直がこの地域一帯を支配していました。大野憲直は植栗元吉と対立し、家臣の斎藤憲次に植栗氏討伐を命じました。しかし、斎藤憲次は植栗氏を討伐すると見せ掛けて、大野氏の岩櫃城を急襲したのでした。この時に大野氏は滅ぼされ、斎藤氏が岩櫃城に復帰しました。
城跡に稲荷神社が建立されました。
大野氏の霊を慰めるため大野権現が建てられ、現在は稲荷神社となっています。この神社の縁起はよくわかりませんが、色々ググっていたら2つの話が見つかりました。
1つは大野新三郎が群馬郡の総社・石倉の辺りで討死したというもの。もう1つも大野新三郎で、武田晴信の先鋒として箕輪城を攻めて討死したというものです。いずれも討死した時期は、天文から弘治(天文=1532~55、弘治=1555~58年の間)とされます。大野新三郎が討死した後、城跡に大蛇が現れ神社が建てられた、というのも同じです。
斎藤憲次により岩櫃を追われた大野氏は、一部が生き残ったようですね。その大野氏が、もと居た稲荷城周辺の人達と音信があった事を示すエピソードだと思います。上に挙げた話を突き詰めようとググリまくりましたが、ちゃんとしたものは見つからず。ただ、城の一角に神社があることだけは、疑いようの無い事実です

所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町原町
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