2016/01/16
嵩山城/群馬県中之条町
嵩山城は中之条町のどこからも見えます。訪問日は2014年4月13日です。

▲遠景
嵩山城は、町のどこからも見えるシンボリックな山にありました。すごい目立つ山だな~なんて思っていましたが、やはりここにお城がありました。山には3つの出っ張りがあり、左から小天狗、中天狗、大天狗と呼ばれています。

▲道の駅
嵩山城の麓には立派な道の駅があります。目立つ山なので、やはり登りに来る人が多いんですね!

▲案内図(拡大)
嵩山の登山ルートが描かれた案内図です。山頂へは左の表登山道と右の東登山道があります。どちらもうねうねうねうねとジグザグになっています。そのぐねぐねが多い方が傾斜が緩いかもということで、左から登る事にしました。

▲城門跡
表登山道の入口には「一の木戸」というのがありました。これはお城にちなんだ呼び名なのか?と思って読むと、やはりそうでした。説明板にはここに城門があり、真田軍が攻めて来た時に激戦があったと書かれています。

▲落石注意
さて、登城路はよく整備されていますが、ゴツゴツとした岩肌が随所に見られます。落石注意とは言いますが・・・落ちてきたら多分避けられませんw

▲岩登り禁止
さらには岩登り禁止の看板まで。守りの姿勢から攻めに転じる人も居るという事でしょうかwww・・・登らないで下さいね


▲表登山道を登り切った所
ひぃひぃ息を切らせながら登ると、かなり広い場所に出ました。ここは小天狗のすぐ脇です。登城口からは私の足で20分かかりました。特に虎口や土塁、堀などは見当たりませんが、郭ですよね?

▲小天狗
嵩山の3つある「天狗」のうち、一番南にある小天狗です。一番上の写真では、左端にある高まりがココです。

▲小天狗からの眺め
高い所があると取りあえず登ってしまいます。それでも高所恐怖症というのが、ちょっと厄介ですが・・・わーいヽ(´∀`)ノって登ってはブルブル後悔、の繰り返しです。反省が無いので、もはや手足が生えた煙といった感じです


▲小天狗から大天狗を見た所
さて、これから一番高い所を目指す訳ですが・・・ということで、小天狗からはこんな風に見えます。あまり高低差があるようには見えませんが、きっと気のせいです。

▲中天狗
ちょうど真ん中にある中天狗です。小天狗からはなだらかな登り坂で、8分かかりました。広場的なものはなく、物見台といった感じの狭い所でした。

▲道
中天狗から大天狗への道です。山の稜線脇を辿るような感じです。

▲実の城
中天狗と大天狗の間にある鞍部に、かなり開けた場所があります。ここには「実の城」と書かれた説明板があります。それによると、ここが城の中心部で、いわゆる本丸に当たる場所なのだそうです。小天狗から14分かかりました。

▲角度を変えて見た所
実の城を見渡せる場所から撮りました。嵩山城では一番広い場所ですが、そんなに広い訳ではありません。郭を囲むように観音像が置かれ、激戦だったことを窺わせます。

▲大天狗を見上げた所
普通ならここで一番高い所を目指すと思うのですが・・・実の城を見て満足した私は、なんとそのまま山を下りました。自分は城キチなのであって、山キチではありませんからwという事で、大天狗の険しさがわかる写真が1枚あるだけです

◆歴史◆
築城年はわかりません。
嵩山城の事を書いたサイトが殆ど無くw盆地のどこからも見えるイカツイ岩山は、今でも城キチを寄せ付けない威厳があるんですね。城キチは、私も含めて山城が大好きですが、山登りは大キライな人が多いようです

1563年、斎藤憲広の子・城虎丸が立て篭もりました。
真田幸隆が斎藤憲広の本拠・岩櫃城を攻めた際、城虎丸が嵩山城に篭城しました。岩櫃城は吾妻郡きっての堅城だったため、真田幸隆は斎藤憲広と和睦しましたが・・・ある日突然岩櫃城を包囲し、内応者が出て岩櫃城は落城しました。斎藤憲広とその嫡男・斎藤憲宗は上杉輝虎を頼って越後へ逃れました。その際、一族の山田源太左衛門に城虎丸の事を託して行ったそうです。岩櫃城を落とした真田幸隆は当然嵩山城も攻めたと思われますが、この時は落城していません。
1565年、真田幸隆に攻められ落城しました。
頑強に抵抗を続ける斎藤氏は、斎藤憲宗が上杉輝虎の力を借りて嵩山城へ入りました。嵩山城の斎藤軍には白井城の長尾氏、吾妻郡東部の尻高氏や中山氏も援軍を出しました。この動きに真田幸隆は和議を申し出て、お互いに人質を出し合いました。しかし、この時に斎藤氏の重臣・池田佐渡守を調略しました。池田佐渡守の内応の条件は斎藤兄弟の助命だったという説もありますが・・・内応者を得た真田軍は再び嵩山城を攻め、斎藤憲宗・虎城丸が自害して落城しました。嵩山城を攻め落とした真田幸隆は、武田信玄より吾妻郡代に任命されました。
1702年より、城跡に百番観音が建立されました。
江戸の僧・空閑と地元の人たちにより、落城の際の戦死者を弔うため建立されました。安置されている像は観音様が70体、阿弥陀如来が1体です。その後も供養は続き、1729年には経塚も建てられました。
所在地:群馬県吾妻郡中之条町五反田
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