2016/01/14
八崎城/群馬県渋川市
八崎城は住宅街にわずかに堀跡が残っています。訪問日は2014年4月20日です。

▲縄張図(拡大)
本丸の説明板に載っている縄張図です。現在の道と郭・堀の配置を重ねて描かれており、どこに何があったかわかりやすいです


▲分郷八崎の由来記
図の本丸へ入る道の入口に、この説明板があります。路肩がちょっと広いので、ここに停めさせてもらいました。しかしこの石碑、もうちょっと他に彫る文字があったのでは?w

▲分郷八崎の由来記から見た城域方向
上の説明板の所から本丸方向を撮りました。黄色く囲んでいる所に城跡への案内があります。こうやって見ると、道の真ん中辺りがちょっとだけ横一線に窪んでいます。縄張図の位置から、ココが二の丸北側の堀跡のようですね!

▲ここから進みます
上の写真の黄色で囲んだカーブミラーの写真です。ここに「八崎城↓」の案内があります。これが無いと、どこへ進んでいいのやら迷う自信があります!!!

▲突き当たり
案内に従って細い道を進んだ突き当たりです。ここに八崎城の説明板があります。その手前がちょっと窪んでいますよね?

▲振り返った所
説明板の奥から振り返ったところです。左側が本丸で、右側の低い所が堀跡です。八崎城の遺構で一番分かりやすいのがここです。

▲本丸の堀跡
かなり埋められていますが、幅がかなりあります。おそらく深さは5mくらいはあったのかと思われます。当時はかなり大きなお城だったようですね。
◆歴史◆
15世紀後半に白井長尾氏により築かれたと考えられています。
現地説明板でも築城年代はハッキリしないと書かれていますが・・・長尾景仲が城主を務めた記録もあるそうです。長尾景仲は山内上杉家の家宰で、1401年に家督を継ぎ1463年に没した人物です。この年代は、山内上杉家と鎌倉公方(後の古河公方)との間で何度も戦がありました。戦に備えて利根川西岸に白井城、その手前に八崎城が築かれたものと思われます
1572年、長尾憲景が逃れてきました。
吾妻郡に進出した真田幸隆に白井城を追われ、長尾憲景が八崎城へ逃れて来ました。この翌年、主の上杉謙信が北条氏政と同盟を結んだため、真田幸隆が後退しました。これにより白井城を回復しています。
1583年、長尾政景(=鳥房丸)が城主となりました。
長尾憲景は真田昌幸→滝川一益→北条氏政に従い、鳥房丸を北条氏政への人質としました。その長尾憲景が没し兄・長尾輝景が家督を継ぐと、長尾政景は返されて八崎城主となりました。白井長尾家中では長尾政景を当主にしようという家臣も多かったようで・・・結構モメたようですw
1590年、廃城となりました。
後北条氏が豊臣秀吉により滅ぼされました。この時の戦で白井城、八崎城ともに攻め落とされ、八崎城は廃城となりました。白井長尾家は領地を没収されたため、白井長尾兄弟は越後へ移って上杉景勝に仕えました。白井に居た頃は家督を争っていましたが、越後では兄の没後に家督を譲られました。
所在地:群馬県渋川市北橘町分郷八崎
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