2016/01/11
中山城/群馬県高山村
中山城は国道沿いにありました。訪問日は2014年4月13日です。

▲駐車場は国道沿い
中山城は国道の北側にあります。国道に迫る城塁を見れば、城キチならピン!と来る筈です。駐車場は特にお城用という訳ではありませんが、停めてよい場所に違いはありません(´▽`*)

▲城址碑と説明板
この駐車場脇に城址碑と説明板があります。上の写真だと、丁度重機で隠れている辺りにあります。コンクリート製の城址碑も、ここまで来るとなかなかいいもんです


▲縄張図(拡大)
城址碑の脇にある説明板に載っている図です。これだけ見ていると規模がわかりづらいのですが・・・

▲国道から見た城塁
こんな感じで、かなり大規模なお城だとわかります。それにしてもデカイ!吾妻地方では珍しい平山城です。

▲北側本丸入口から見た城塁
とりあえず外周を見て、それから城内へ入ることにしました。捨曲輪の北側を左へ進み、あとは時計回りにぐるっと1周。本丸の北東部にある坂から城内へ入りました。

▲空堀(底から)
しっかし、どこの堀をとっても広くて深い!こんな感じの堀が次から次に現れます。さすがは関東の覇者・後北条氏のお城です。
堀の傾斜が緩いと感じている方が居るかもしれませんが・・・山の斜面をよく直登してる私から見ると、これでもかなりの急斜面です。一気に駆け上がるのは到底無理な角度です。

▲本丸内部(パノラマ)
図では本丸が小さく描かれているように感じます。しかし、内部は普通のカメラでは1枚で収まり切れない広さ。そんな感じなので、iPhoneでパノラマ撮りました。

▲本丸の土塁
パノラマでは広い感じは伝わるのですが、肝心の個々の要素が見えず。ということで、土塁だけ撮った写真です。堀がかなり立派なせいか、土塁はあまり高くする必要がなかったようです。

▲空堀(上から)
その土塁上から見た空堀です。かなり深いです!隣の曲輪よりも本丸の方が高いのがよくわかります。
◆歴史◆
1582年から1583年にかけて、後北条氏により築かれたと考えられます。
吾妻郡を支配していた真田昌幸は、神無川の戦の後の1582年7月、北条氏直に従いました。しかし、その2ヶ月後の9月に徳川家康に鞍替えしたため、それ以降の事と思われます。
1583年正月付の北条氏政から長尾憲景宛の書状に、中山古城を降した事が書かれています。また、1583年2月の北条高広の書状に、後北条氏が中山で城を普請している事が書かれています。更に、北条氏邦が尻高源次郎宛に中山城へ移るよう書状を出したのも、1583年の事です。これらから、1582年後半から翌1583年にかけ、後北条氏が中山に城を築いたと思われます。
当時、沼田の地を巡って真田昌幸と後北条氏が争っていました。沼田城は、1578年の御舘の乱までは越後の上杉家、その後は後北条氏が支配していました。しかし、1580年に真田昌幸が奪い、沼田争奪戦が続いていました。1582年、後北条氏は神無川の戦の後、白井城の白井長尾氏を配下に加えました。白井城からは沼田を通らずに中山に通じる道があります。そのため、吾妻郡と沼田を分断する位置に城を築いたものと思われます。沼田顕泰の子・赤見山城守が中山城の城主となり、沼田衆や反真田の吾妻衆が入りました。
真田昌幸が従った徳川家康と北条氏直は、1582年10月に和睦しました。このため、後北条軍が中山古城を攻めたのは、9月から10月の間だと思います。北条軍は吾妻郡の更に奥にまで侵攻し、岩櫃城、手子丸城なども攻めています。真田軍による妨害を排除して、城を築くためだったと思われます。
尚、時期は不明なのですが、真田軍が中山城を攻め落としたと思われます。それは、1589年まで真田昌幸が沼田領を保ち続けたからです。中山城が健在であれば、沼田城は単独で後北条軍と戦うしかありません。なので、中山城はそんなに長く使われていないのではないかと思います。
1585年、真田昌幸は徳川→上杉→豊臣と主を替えました。
この頃、真田昌幸はまだ徳川家康に従っていました。しかし、まだ沼田領を北条氏直に渡しておらず、徳川家康から催促がありました。この要求を突っぱねた真田昌幸は、突如、上杉景勝に鞍替えしました。そのため、徳川家康に上田城、北条氏直に沼田城を攻められましたが、いずれも撃退しました。その後、上杉景勝に出していた人質の次男・信繁を大坂へ移し、豊臣秀吉の家臣となりました。
1589年、7月、豊臣秀吉が沼田領の裁定をしました。
沼田領は利根川の西側1/3が真田領、東側2/3が北条領となりました。沼田城は利根川の東側にあるため後北条氏の城となり、猪俣邦憲が城代となりました。
1989年11月、猪俣邦憲が真田領の名胡桃城を攻め落としました。
この他に岩櫃城、横尾八幡城なども攻めましたが、真田軍が撃退しています。後北条氏は他にも、北条氏邦が下野国の宇都宮国綱を攻めています。沼田問題を決着したのに従わないため、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼす原因となりました。
1590年、廃城になったと思われます。
豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされました。沼田城は真田昌幸の手に戻ったため役割を失い、廃城になったものと思われます。もっとも、真田軍が中山城を使っていたのかどうかはわかりませんが・・・
所在地:群馬県吾妻郡高山村中山
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