2016/01/10
羽根尾城/群馬県長野原町
羽根尾城は断崖の上にありました。訪問日は2014年4月12日です。

▲登城口
羽根尾城跡へは、羽根尾駅の東側にある山道を登りました。地図にそのラインを入れましたが、下から上へ進んでいます。上から下る道もあるようですが、そちらは走っていません。ただこの道、麓では綺麗な舗装道でしたが、登るにつれて次第に荒れてきます。急な坂道に砂利が転がっており、オンロードバイクでは危険過ぎ。手遅れの一歩手前で道端のスペースに停めました。・・・ここが城址への案内のある登城口です。道がこんなだと知っていれば、麓でバイクを降りて歩いてました。

▲登城路から見上げる
さて、コンクリートが打ってあるものの、細く急で砂利の転がる道を登っていきます。すると、進行方向右手が山頂っぽい雰囲気になっており、そこに鉄塔が乗っています。ここが目指す城跡です。

▲城内への入口
ひぃこらひぃこら息を切らせながら道を登ると、やがて道端にこれが現れます。いよいよ城内へ突入です。見た感じは郭と郭の境目にある堀切が進入路になっているようです。

▲主郭の様子
登り切った所からは、主郭の様子が一望出来ます。そんなに規模の大きなお城ではありませんからね。近隣豪族との非常時に立て篭もるには十分な規模だと思います。

▲城址碑と説明板
ここにはちゃんとあるべきモノがあります


◆歴史◆
羽尾氏が築きました。
築城年代は不明です。羽尾氏は滋野一族海野氏の末裔です。ご先祖様は平安時代末頃に当地に移って来た海野幸房とされています。
海野幸房はその名の通り、信濃国小県郡の大族・滋野一族の棟梁の家柄です。しかし、戦乱を逃れてきたとされ、捨城庵という庵を建てて開墾に励んだそうです。近隣の鎌原氏の系図にも、下屋幸房が鎌原氏、羽尾氏などの祖であると記されているそうです。
築城時期ですが、正直な所わかりません。すぐ南の吾妻川対岸に居た鎌原氏は、1397年に城を築いたとされます。おそらくその頃に築かれたものと思われます。羽尾氏の名は1435年の『長倉追伐記』、1443年の『良慶処分状』に登場します。
1541年、真田幸隆が羽尾幸全を頼って落ち延びて来ました。
真田幸隆は出自がよくわかっていません。海野棟綱の子、娘婿、娘婿・真田頼昌の子など色んな説があります。真田幸隆が海野氏から妻を娶ったのは間違いないようですが・・・羽尾幸全の弟2人が海野姓を名乗っており、その娘の可能性もあります。
海野棟綱と真田幸隆が落ち延びて来たのは、武田信虎との海野平の戦で敗れたためです。これより、海野氏は領地を失ってしまいました。旧領回復をめざす海野棟綱は、山内上杉家を頼ろうと考えたのでした。羽尾氏をはじめとする吾妻郡は、衰えたとはいえ山内上杉家に従っていました。しかも、海野氏と同じ滋野一族が多数暮らしている地域でもあります。
羽尾幸全は、この辺りの有力武将・長野業正に海野棟綱を引き合わせたのですが・・・真田幸隆は全く違う意見を持っていました。それは武田晴信(=信玄)を頼るというものです。海野平の戦から甲斐に戻ると、武田晴信はクーデターを起こして父・信虎を追放しました。その後の動きは武田信虎とはかなり異なり、縁組までした諏訪家を滅ぼしています。武田晴信に期待したのは、その人となりを知っていたからかもしれません。こうして真田幸隆は海野棟綱らと袂を分かち、武田家臣となりました。
1550年代に鎌原幸重との争いが始まりました。
室町時代の関東は、古河公方と山内上杉家、扇谷上杉家が三つ巴で争っていました。上野国は山内上杉家の本拠地であり、吾妻地方も支配していました。しかし、後北条氏が徐々に勢力を拡大して山内上杉家を圧迫。1546年にあった河越夜戦で優劣が決し、1550年代には上野国にも後北条氏の勢力が及びました。そのため山内上杉憲実は本拠地の平井城を追われ、越後の長尾景虎を頼るようになりました。すると、吾妻郡を仕切る存在が無くなり、実力で勢力を拡大する時代になりました。
この流れに沿ったものか、羽尾氏も対岸の鎌原氏と境界を巡って争っていました。羽尾氏も鎌原氏と同じ滋野一族海野氏の子孫でしたが、もう500年位経ってます。羽尾幸全は東で勢力を拡大していた斎藤氏、更には越後の長尾景虎の後ろ盾を得ました。すると、鎌原幸重も後ろ盾を求め、同族・真田幸隆を通じて武田信玄の傘下となりました。
真田幸隆は鎌原幸重からこの話を聞いた時、どんな事を考えたのでしょうか・・・敵は斎藤憲広とだけ聞かされ、後からそちら側に羽尾幸全が居ると知ったのでしょうか?
1562年、ついに両者が激突します。
両者の争いはついに実力行使に及び、斎藤憲広が鎌原城を攻めました。鎌原幸重は信濃へ逃れ、武田信玄から信濃国小県郡内に領地を与えられました。しかし、鎌原幸重は本領への復帰を望み、真田幸隆の援軍を得て鎌原城を奪回しました。真田軍は鎌原城だけでなく羽尾氏の領地にも侵攻し、羽根尾城、長野原城も奪いました。長野原城には真田幸隆の弟・常田隆永を城代として入れました。
こうなると目には目をの応酬になる訳で・・・斎藤憲広は真田軍が引き上げると、羽尾氏の旧領回復の兵を挙げ長野原城が落城。この時に常田隆永が討死してしまいました。あ~あ、やっちゃったって感じです。
1563年、武田軍による吾妻郡侵攻が始まりました。
武田信玄の家臣を殺したとなると、本国が黙っていませんよね?真田幸隆も弟を殺されており、先鋒として武田軍を率いて侵攻しました。今度は鎌原城を奪還しただけではなく、斎藤憲広の居城・岩櫃城まで攻めています。斎藤憲広は武田信玄から討伐対象にされてしまったようです。この年の内に岩櫃城が攻め落とされました。
尚、武田軍による岩櫃城攻めの際、羽尾幸全の舎弟・海野幸光・輝幸兄弟が寝返りました。元はと言えば、斎藤憲広に助けを求めて騒動を広げた張本人たちですが・・・以後は真田氏に仕えることとなります。
廃城時期もよくわかりません
海野幸光・輝幸兄弟は真田幸隆、昌幸の2代に従い、吾妻郡侵攻に協力しました。そして、1581年には海野幸光は岩櫃城代、海野輝幸は沼田城代となりました。しかし、間もなく兄弟に謀叛の噂が広がり、真田昌幸により殺されてしまいました。おそらくこのタイミングで、羽尾氏が持っていたお城は廃城になったものと思われます。噂を流したのが誰なのか、とても気になります。
所在地:群馬県吾妻郡長野原町
群馬県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント