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刈屋城/愛知県刈谷市

刈屋城では、復元に向けた発掘調査が行われていました。
訪問日は2014年8月4日です。

刈谷城①城池
▲城池

水堀の跡が池になっています。池を水堀にした、かもしれませんが。どっちなんでしょうね?

刈谷城②発掘調査中
▲発掘調査中、でした

訪問時は発掘調査の真っ最中でした。とはいえ、実際に作業している人の姿はありませんでした。タイミングは最悪でしたね・・・かなりの部分が柵で覆われ、殆ど見れていません。

刈谷城③復元図
▲復元図

あ~あ、なんて思いながらぶらぶらしていると、こんなの見つけました。どうやら復元に向けての発掘調査だったようです!こんなのが出来るのか・・・完成したらまた見に来なければ!

刈谷城④工事現場
▲工事現場

フェンスの内側にはこんな感じで土が盛られています。元々だったのか、重機で積んだのか。後者のような感じがしますけど。・・・1年半前のレポートですwww


◆歴史◆

1476年、水野貞守が刈屋へ進出しました。

当時は応仁の乱の終盤でした。周辺では知多分郡守護・一色義遠と三河守護・細川成之が争っていました。三河は元々は一色氏が守護を務めていましたが、細川氏との争いで奪われた経緯があります。一色氏と細川氏の三河を巡る争いでは、一色氏が優勢でした。この年、一色軍は細川軍に勝利したとみられ、三河守護代・東条国氏が自害しています。水野貞守が刈屋へ進出したのと同じ年ですが、因果関係まではわかりませんでした。この時に築かれた刈屋城は現在とは位置が異なるため、刈屋古城と呼ばれています。

ちなみに当時の刈谷は「刈屋」と表記されていました。現在の「刈谷」の表記は、1950年に市制が施行されてからのものです。

1533年、水野忠政により新城が築かれました。

水野氏はそれまで川の対岸にある緒川城を本拠としていました。水野忠政は刈屋に新たな城を築き、本拠を移しました。

1543年、水野信近が城主となりました。

父・水野忠政が没したため、子の信近が城主となりました。以後の刈屋城主は刈屋水野氏と呼ばれるようになります。水野氏の家督は兄・信元が継ぎ、従来どおり緒川城を居城としました。

1560年、今川軍の岡部元信に攻め落とされました。

岡部元信は鳴海城を守っており、攻め寄せる織田軍をことごとく撃退していました。しかし、主君・今川義元が討たれると、その首と引き換えに鳴海城を退去しました。織田信長はその忠義を讃え、今川義元の首を棺に納めて丁重に渡したといいます。その岡部元信が「功無くして帰れない」と、その帰途に刈屋城を攻めたのでした。城主・水野信近は討ち取られ、岡部元信は刈屋城を焼き払って帰途につきました。刈屋城は水野信元が奪い返し、信近の遺児を自らの養子としました。

1576年、水野信元が滅ぼされました。

西暦では1576年1月、和暦では天正3年12月に、水野信元が織田信長により殺されました。これは織田信長の重臣・佐久間信盛の讒言によります。讒言の内容は、水野信元が武田勝頼に内通しているというものでした。命を狙われていると知った水野信元は妹の子・徳川家康のもとへ逃れますが・・・徳川家康も織田信長には逆らえず、三河の大樹寺で水野信元を殺害しました。同時に水野信元の養嗣子・信政も一緒に殺されたため、水野氏は一時滅亡しました。
刈屋城は佐久間信盛の城となりました。

1580年、水野氏が再興されました。

水野信元を讒言で死に追いやった佐久間信盛が、織田信長により追放されました。その際、水野信元の内通は冤罪だったとし、水野信元の末弟・忠重に刈屋の地が返されました。水野忠重は水野信元の弟で、清洲同盟の頃に兄と対立して徳川家康の家臣となっていました。

1600年、城主・水野忠重が斬られました。

徳川家康と石田三成の対立が深刻になる中、池鯉鮒(ちりゅう)で堀尾吉晴を歓待しました。この時に同席していた加賀井重望と口論になったとみられ、この時に斬殺されました。加賀井重望は堀尾吉晴と斬り合いの末、その場で斬殺されました。家督は長年の放浪の末前年に和解した嫡男・水野勝成が継ぎました。

1615年、水野忠清が城主になりました。

水野忠清は水野勝成の弟です。兄・勝成が家督を継いだ後は、徳川秀忠の家臣になっており、上野国小幡1万石の領主でした。大坂夏の陣の後、功を争ったため閉門処分を受けましたが・・・翌年許され、兄・勝成が去った刈屋城2万石の城主となりました。兄の水野勝成は、大坂の陣の功により、大和国郡山城6万石に栄転しています。

1632年、松平忠房が城主となり、以後めまぐるしく城主が交代しました。

松平忠房は深溝松平氏で、三河国吉田藩主・松平忠利の子です。・・・知りませんよねw父が没して家督を継ぎ、刈屋へ移されました。ちなみに、前城主・水野忠清が吉田藩へ移ったため、入れ替わりとなっています。

以後の城主は
1649年~久松松平氏
1651年~稲垣氏3代
1702年~阿部氏2代
1710年~本多氏(忠勝系)
1712年~三浦氏3代です。
1747年~土井氏
です。
以後、明治まで土井氏が続きました。藩主の移封は失態による懲罰的な減封や、出世による加増もあるのですが・・・この時期は全国的に移封が盛んに行われており、幕府による大名いぢめだったと思われます。

この中で事件を起こしたのは、1649~51年に城主だった松平定政だけです。これは将軍・徳川家光の死後、幕府に無届で勝手に出家したものです。この事件は幕府より「狂気の沙汰」とされ、改易処分となりました。

1871年、廃城になりました。

廃藩置県により刈屋藩は廃藩となり、刈屋城も廃城となりました。1873年に払い下げられ、建物や石垣などは破壊されてしまいました。ただ1つだけ、辰巳櫓が碧南市の妙福寺の櫓門として移築されています。・・・たった今知ったので、見に行けていませんあせる櫓が門にされているので、原型どおりではないと思われます。

本丸の石垣・櫓の復元が予定されています。

刈谷市役所のホームページによると、本丸部分の復元を行うそうです。刈谷市役所のサイトにあった復元図がこちらです

刈谷城⑤復元図

そのサイト(正確にはサイト上にあるPDF)によると、かなり本格的な復元になりそうです。完成したら是非とも見に行きたいものです合格


所在地:愛知県刈谷市城町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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