2013/04/06
早川城/神奈川県綾瀬市
今週も生憎のお天気なので、思い出しブログです。行きっ放しの城跡が減らないもので・・・w
ここには2011年11月5日に訪問しました

この城跡を知るきっかけとなったのは迷子になった時です。「ここどこだろ~?」と走っていた時に「城山公園」の案内標識がありました。その時はそれどころではなかったのでスルーしたのですが・・・後で自分がどこを迷走していたのかを調べている内に、そこが城跡だと知りました。
で、ルートはと言うと・・・さすがに迷走していた時にそばを通っただけあって、中々文章では説明が難しいです。一番下にある地図(Google Map)を見てチャレンジしてみて下さいw

▲城跡は「城山公園」として整備されています
早川城跡は公園として整備されているだけあって、駐車場もかなり立派です。もちろん、公園の駐車場なのでタダです。公園の周りは新興住宅地のようで、綺麗に区割りされて新しい家が沢山並んでいました。

▲城山公園の案内板
公園を入ってすぐの所に公園の案内板がありました。「早川城跡」と銘打ってけっこうな文字数があり期待したのですが・・・要約すると、
"ここはかつて渋谷氏の城であり、発掘の結果遺構が見つかった"
程度の事しか書かれていません。何も無いよりははるかにマシですが・・・

▲案内板の図を加工して遺構の位置を記入しました 拡大表示
・・・ということで、5時間かけてチマチマ加工して期待していたものを作ってみました。悪天候でヒマじゃなければこんな事できませんwさて、公園に入ってすぐの所は本当にただの公園です。案内板のある広場が二郭です。なので、あまり期待もせずに進んだのですが・・・

▲主郭と二郭の間の堀切(内側から)
木々の間を通る道を進んで行くと・・・・!突如現れた見事な堀切。かなり埋もれた様子ですが、それでも2m程の深さはあります。

▲主郭と二郭の間の堀切(外側から)
後で反対側(西)から撮影したものです。かなり深さもあり、ハッキリそれとわかる堀切です。ここが二郭と主郭の境目となります。

▲主郭入口にある虎口の土塁
主郭に入って振り返ると、さっきの堀切に沿って土が盛られています。虎口の土塁だったんですね!堀切と土塁で高低差をつけた厳重な門だったようです。

▲主郭
主郭はかなり広い広場となっています。鎌倉時代の城跡というと、もっとこじんまりした所が多かった気がします。これだけの広さがあると、守る兵の数も相当な人数が必要だと思います。

▲主郭にある物見塚
主郭の中に、木々で覆われた土盛があります。これは物見塚と呼ばれています。テッペンにある石碑は、東郷平八郎が建てたものだそうです。

▲南斜面にある腰郭
主郭からは南の斜面を下る道があり、その途中に腰郭があります。大した広さではありませんが、緩やかな斜面にある平場は大切な防衛拠点です。お城の造りは北に備えた感じですが、裏を取られないようちゃんと備えていたんですね!
早川城は、北から南に突き出した舌状台地の先端に築かれたお城でした。東~南~西は深い谷で隔てられています。当時そこまでは写真を撮っていないので、画像はありません

郭は台地先端の南から主郭・二郭と続き、かつては三郭まであったそうです。三郭は完全に住宅地となってしまったので面影はありません。かなり広いお城なので、渋谷氏の勢力が相当なものであったことが窺われます。
◆歴史◆
早川城は平安時代に渋谷氏により築かれました。渋谷氏は秩父氏の一族で、河崎基家の孫・重国が渋谷姓を名乗ったのが始まりです。
河崎基家は武蔵国荏原郡(川崎市南部から東京都大田区、品川区辺り)を本拠としていました。とても武芸に秀でた武将でしたので、各地に所領を沢山持っていました。その1つが相模国高座郡渋谷荘であり、重国がこちらに移って城を構えました。
東京の渋谷には、重国の子・金王丸が居ました。かつては城がありましたが、今は金王神社となっています。金王丸は源義朝に仕え、平治の乱に敗れて東国に落ち延びる義朝に最後まで仕えました。その後、26年間姿を隠していました。1180年に源頼朝が挙兵した時、土佐坊昌俊と名を変えて初めから味方しました。
一方、本家の渋谷氏をはじめ、秩父一族は源頼朝が石橋山で挙兵した際は平家方でした。当時、武蔵国は平清盛の知行国であり、清盛の4男・知盛が武蔵守を務めていました。武蔵武士の棟梁は平家だったのです。
石橋山の戦いでは平家方が圧勝し、頼朝は命からがら安房国へ落ち延びました。そこで里見氏や上総氏を従えて再び挙兵するのですが・・・そこで秩父一族は平家を裏切りました。
これは渋谷氏だけでなく、武蔵国のほぼ全勢力が寝返ったのです。一度は平家方として戦って大勝利を収めたはずなのですが・・・何があったんでしょうね?w県内の城跡に行って歴史を調べると、大体こんな感じの流れになります。
鎌倉時代になり、重臣達が次々と粛清されていく中、渋谷氏は生き残りました。1213年の和田合戦で次男坊は和田方について戦死しましたが。長男坊は北条方についたので、一族滅亡とはなりませんでした。
その後、渋谷氏は1221年の承久の乱で手柄を立て、薩摩に多くの所領を得ました。そのため、長男以外は任地である薩摩に移ったのでした。一方、相模の本家も室町時代までは続きました。室町時代の相模といえば北条早雲。伊豆からじわじわと東へ勢力を伸ばしていました。
早雲ははじめ、山内上杉氏と戦っていた扇谷上杉氏の援軍として相模に兵を出していました。そうやって相模国内にある山内上杉氏方の城を攻めては自分の領地にしていったのです。小田原城の大森氏は、扇谷上杉氏から山内上杉氏に寝返ったため、早雲に滅ぼされたのです。
ですが、1510年に早雲が扇谷上杉氏の重臣・上田氏に謀反をそそのかしていたのがバレました。こうして起きたのが権現山での戦いです。それまで争っていた両上杉氏が和睦し、早雲の排除を始めたのでした。
権現山では両上杉軍が大勝しました。ここから逆襲が始まるはずでしたが・・・山内上杉氏で内紛が始まり、扇谷上杉氏がその仲裁に奔走する始末。もう1つの同盟相手の古河公方も同じような状況に陥りました。こうなると早雲の敵ではありません。
1512年に早雲は、扇谷上杉氏随一の家臣・三浦義同の岡崎城を攻め落としました。三浦氏も秩父一族です。この戦いで、早雲は相模のほぼ全土を手中に収め、義同は三浦半島へ落ち延びました。渋谷氏は扇谷上杉方として戦っていたので、早川城もこの時落城したと思われます。1519年に早雲は他界しましたが、2代目の北条氏綱は早雲の志を継いで勢力を拡大しました。
そして1524年、氏綱は江戸城を攻め落としました。この時の戦いで渋谷氏が守っていた渋谷城も攻め落とされ、相模の渋谷氏は滅びてしまいました。
一方、薩摩に移った弟たちは東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏を名乗りました。彼らは当地でも活躍し、島津氏に拮抗するほどの勢力となりました。公園の物見塚に石碑を建てた東郷平八郎も、渋谷氏の子孫だったのです。
所在地:神奈川県綾瀬市早川
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コメント
無題
2020/04/22 07:53 by 小野寺重道 URL 編集