2015/12/27
河和城/愛知県美浜町
河和城(こうわじょう)は民家跡から登ります。訪問日は2014年8月4日です。
▲上から
河和城への登城口は、民家の跡地のようです。坂道の脇にちょっとした平地があり、こんな感じの塀に囲まれています。

▲下から
坂の下側から見た所です。知らなければ普通に民家の塀にしか見えませんね。

▲登城路
上の塀の中に入ると、斜面を一直線に登る階段があります。この脇に説明板もあります。ただ、この階段は斜面の雑木林を突っ切る感じで、真夏だと小蝿や蚊がまとわりついて来ます。

▲主郭
階段を登り切った所が主郭です。往時はきっと別の所から登る道があったのでしょうが、それがどこなのかわからず。訪れる人がそんなにいないからだと思いますが、雑草が伸び放題になっています。

▲土塁
主郭の回りは土塁で囲まれています。「土塁」と書かれた立派なプレートもありますが、草に埋もれていました。なので、写真は草が薄い所を撮っています。
◆歴史◆
1470年頃、戸田宗光により築かれました。
戸田宗光は室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官で、碧海郡上野を拠点としていました。碧海郡上野は現在の豊田市で、松平信光(徳川家康の5代先祖)の婿でした。1475年に渥美郡に入り、大津城(高縄城)を築いて拠点を移しました。そこから渥美郡の分郡守護・一色政照を隠居に追い込み渥美郡を掌握するのですが・・・それよりも先に、知多半島へ勢力を拡大しています。1470年に羽豆岬へ進出し、知多半島西部を拠点とする佐治氏と争いました。羽豆岬の争いは、1476年頃に両者が交代で陣代を置くことになりました。戸田氏は知多半島東部を次々と支配下に置き、岩田氏の富貴城も手に入れました。
1547年、水野信元に降伏しました。
水野信元は、知多半島統一のため各地に侵攻しました。1543年には成岩城の榎木了圓、長尾城の岩田安広、富貴城の戸田法雲を降しました。水野信元は更に南下し、河和城攻略のため布土城を築いて弟の水野忠分を城主にしました。河和城の戸田氏は抵抗を続けていましたが・・・渥美半島にある田原城の本家が、今川義元に滅ぼされてしまいました。これは松平広忠が差し出した人質・竹千代を、戸田康光が織田信秀に渡した事によります。このため河和城の戸田氏は後ろ盾を失い、水野信元に降伏しました。
降伏した戸田氏は水野信元の娘・妙源を娶っていますが・・・その時期がサッパリわかりません。1590年に領民に城が破壊されて江戸へ逃れた時、嫡男・万千代は元服していませんでした。小田原征伐で討死した戸田守光と妻・妙源は、まだまだ若かったと思われます。しかし、水野信元が織田信長・徳川家康に暗殺されたのは1576年の事です。・・・という事は、1576年頃に生まれた娘が、1580年代に戸田氏に嫁いだ可能性が高いですね。
河和の戸田氏は、水野忠重と争っていた事があちこちに書かれています。水野忠重が刈屋城に入ったのが1580年、佐久間信盛の追放後です。ということは、両家の真の和睦は1580年代という事になりますよね?
1590年、廃城となりました。
豊臣秀吉による後北条氏討伐のため、城主・戸田守光も小田原へ出陣していました。しかし、戸田守光が討死したことが伝わると、領民により河和城が破壊されました。きっと悪政の限りを尽くしていたのでしょうね・・・戸田守光の妻・妙源は、三人の子を連れて叔母・於大の方を頼り江戸へ逃れました。そのためか、江戸滞在中からは実家の水野姓を名乗るようになりました。以後、河和水野家と呼ばれるようになります。
1601年、遺児・水野光康は河和1460石に復帰しましたが、館は集落の北側に築きました。子孫は代々河和の地を受け継ぎ、明治時代まで続いたそうです。
所在地:愛知県知多郡美浜町河和
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