2016/01/03
奥田城/愛知県美浜町
奥田城跡は竹薮になっています。訪問日は2014年8月4日です。

▲ここから登りました
訪問前にあちこちのサイト様を参考にした結果、ここから登りました。登城路が無い山城なので、普通なら真冬にしか行かないような所です。(当時はまだ山中に続く道を紹介されたサイト様がありませんでした)ただ、竹薮なので下草が無く、遺構もそれなりに残っているというのが訪問の決め手でした。

▲・・・
ということで、いざ登ろうと思いましたが・・・ここから山へ入るんかい?www、というのが第一印象でした。真夏にこの中へ突入するなんて、いくら藪こぎ上等!な私でも有り得ません。
「でも来ちゃったし、ちょっとだけ覗いて行くか」と、入口の藪を掻き分けると・・・あら、不思議ノ(´д`*)体が自然に吸い込まれちゃいましたwwwというのは冗談で、すぐそこまで迫った竹薮は下草が無く、登りやすそうな感じでした。ここ登ろう!と決めたので、虫除けスプレー塗ったくって突入しました。

▲土塁
城内の竹薮はこんな感じです。竹薮に入りまくっているのでわかるのですが、かなり手入れが行き届いています。荒れ放題の竹薮は、左右の脇のように倒れた竹で埋め尽くされ、とても歩きにくいものです。きっと普段から地主様が来ているものと思われます。「土塁」なんて書きましたが、見つけられましたでしょうか?一番奥に心霊写真の幽霊みたく見えるのが土塁です。

▲堀
さらには堀まで!手入れはされつつ、手を加えられていないおかげで、遺構がよく残っていました。あとは竹の密度がもうちょっとまばらなら、というのは贅沢ですね。
◆歴史◆
水野勝成のお城でした。
『尾張志』では巻十に知多郡の城跡の事が書かれています。奥田城の事も書かれているので抜粋すると
北奥田村にありその跡今松林となる
水野日向守の居城といひ伝えたり
水野和泉守忠重緒川の城に住しその子六左衛門勝重当城を築きて住り
六左衛門後に日向守に任す
ここで登場する「水野日向守」「六左衛門勝重」は、全て水野勝成を指しています。水野勝成は「かつなり」と読む事が多いですが「かつしげ」と読むこともあるそうです。
水野勝成は仮屋城主・水野忠重の子です。後に備後福山城10万石の藩主となりますが、若かりし頃はかなりの暴れん坊だったようです。1584年にあった小牧・長久手の戦までは父のもとで暴れていましたが・・・この戦の最中に父の寵臣・富永半兵衛を斬殺したため、勘当されました。その後は諸国を放浪し、豊臣秀吉に仕えたこともありました。ただ、すぐに出奔したため秀吉の怒りを買い、刺客を送られた事もあったとか。佐々成政や小西行長、立花宗茂、黒田孝高などに仕えた後、1599年に父と和解しました。とても面白い人物ですが、書き始めるといつものようになるので割愛しますw
翌1600年には父が暗殺されたため家督を継ぎ、仮屋城主となっています。そのため、水野勝成が奥田城に居た時期は出奔前か、和解後のどちらかしかあり得ません。
Wikipediaでは、1580年に奥田・細目の2城を任されたと書かれています。鵜呑みには出来ないのですが、時期的には十分有り得ると思います。
1575年に水野信元が佐久間信盛の讒言により暗殺されました。しかし、1580年にはその佐久間信盛が織田信長により追放されました。水野信元は冤罪だったと知った織田信長は、その弟・忠重に水野家を継がせ再興させました。この時に奥田城に水野忠重の子・勝成が入ったと考えられるからです。それから4年で出奔してしまいますが、尾張志ではその後について書かれていません。特に備える敵が居た訳でもないので、おそらくそのまま廃城になったものと思われます。
『尾張志』が書かれた頃は「松林」だったんですね!今は「竹林」なので、将来は・・・やめましょう

所在地:愛知県知多郡美浜町奥田
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