2016/01/03
富貴城/愛知県武豊町
富貴城跡は主郭が白山神社、2郭が円観寺となっています。訪問日は2014年8月4日です。

▲白山神社
主郭の跡地には白山神社があります。この段差がお城っぽいですね!、とはまぁ素直に思いませんが。

▲見下ろしたところ
ほらほら、見てごらん!こぉーんなに高いんだよ、って程でもありませんけど


▲円観寺
そのお隣の2郭跡には円観寺があります。門といい、その奥の建物といい、お城みたいな雰囲気が漂います。漂ってますよね?・・・塀がもうちょっと凝ってればw

▲境内
その境内には、これから出陣するのか?という位に幟が乱立しています。ほら貝の音があれば完璧です!この幟で出陣するのは、きっと宗教弾圧に抵抗する僧兵さん達になるのでしょうけど。

▲説明板
そしてそして、由来を記した説明板があります!ふむふむ、ここは戸田法雲が居たお城で、大高城とも呼ばれていたんですね!板が設置されているお寺については、ひと言も触れていませんw
◆歴史◆
岩田氏により築かれました。
岩田氏は承久の乱以後(鎌倉時代)から長岡城を本拠としており、室町時代に入って築きました。名の由来はそのままで、三河湾の海上権を掌握することにより富を得たからだとされます。当時は海岸線がお城のすぐ近くまであったそうです。
戸田氏の城となりました。
戦国時代になり岩田氏の勢力が衰えると、戸田氏が富貴城に入りました。詳しい時期はわかりませんが、戸田氏が知多へ来たのは1470年頃です。これは知多郡の分郡守護だった一色氏が、応仁の乱で知多の支配権を失った事によります。三河でも一色氏と争っていた細川氏が守護を解任され、後任の守護が置かれませんでした。そのため、土豪達が各地で実力による勢力拡大を図りました。戸田氏は東三河を中心に勢力を拡大し、海を越えて知多半島にも進出したのでした。知多に進出した戸田氏は河和城を本拠とし、富貴城には一族の長老・戸田法雲が入りました。
尚、最近よく見ている『尾張志』巻十では、富貴城について
富貴村にあり其跡七反八畝
今円光坊の松林となる
戸田孫右衛門法雲(法名)居住し河和にうつる
里人法雲を誤りて戸田法印の城といひ伝へたり
と記されています。
1543年、水野信元により攻め落とされました。
緒川城を本拠とする水野信元が、知多半島統一を図り各地に出兵しました。宮津城、成岩城、長岡城を降し、戸田氏の支配地域にも侵攻して来ました。戸田法雲はよく戦いましたが、多勢に無勢で攻め落とされました。戸田法雲は尾張志では法名と注記してあり、敗戦を機に出家したのかもしれません。
富貴城にはその後、水野守信(右馬允)が入りました。父親の水野忠守が1525年生まれなので、1543年時点で城主はないと思われます。普通に「水野守信」でググると別人がヒットします(半左衛門)。・・・こちらの右馬允についてはあまり情報がありません。わかったのは、後に河和城主・戸田守光の娘を娶り、戸田姓を名乗ったことくらいです。
水野信元は更に南下して、河和城も攻めました。河和城の戸田守光との争いは長期化したようですが、最終的には和睦しています。背景には、田原城の本家が今川義元に滅ぼされてしまい、後ろ盾を失ったことによります。これは、田原城主の戸田康光が松平広忠の人質・竹千代を奪い、織田信秀に渡したためでした。・・・織田信秀に仲介を頼んで和睦したのかもしれませんね。
廃城時期はわからず・・・
あちこちで「桶狭間の戦の後、今川方だったため織田・水野連合軍に攻められた」とあります。
河和城の戸田守光は1590年の小田原征伐まで城主だったので、これは無いような気がします。富貴城主として名の挙がってる水野守信にしても、まだ城主になりたての時期でしょうし。この水野守信は、河和城の戸田守光の娘を娶って一時は戸田姓を名乗っていました。という事は、戸田守光と同じ行動をとっていたと考えるのが自然かもしれません。後に水野姓に復したとされるのは、おそらく1590年の事と思われます。
・・・情報が限られているので、推測ばかり続きます

1590年、小田原征伐で戸田守光が討死すると、なんと領民が河和城を破壊してしまったのです。戸田守光の妻と遺児は江戸に逃れ、水野姓に改めて11年後に戻って来たという事がありました。戸田姓から水野姓に戻した理由は、たぶんおそらくきっとこれだと思います。
所在地:愛知県知多郡武豊町富貴
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