2016/01/05
常滑城/愛知県常滑市
常滑城も崖っぷちにありました。訪問日は2014年8月4日です。

▲見上げたところ
常滑城はこの上にありました。すごい地形ですヾ(@☆▽☆@)ノ上に見える建物はお寺です。

▲登り切った所
階段を登り切ると、そこには公園があります。カラフルな滑り台や鉄棒がある、何の変哲もない普通の公園にしか見えず。確かここだったハズですが・・・

▲ハッケン(☆∀☆)
ありました!崖っぷちの木陰に。

▲城址碑と説明板
目の前まで来ればコッチのもの。あちこちで見る写真のブツがそこにありました!
◆歴史◆
1529年までに水野忠綱により築かれました。
水野忠綱は水野忠政の弟です。常滑城の初代城主であり1529年に没しているため、それまでには城があった事になります。常滑は当時高級品であった陶器の生産が盛んで、伊勢湾を中心に莫大な利益を生みました。当初は砦程度の規模でしたが、2代目・水野忠清の代に本格的な城として改修されました。常滑城を本拠とした水野氏は代々「監物」を称したため、水野監物家と呼ばれます。
1560年、水野守次が織田信長配下として初陣を飾りました。
水野守次は織田信長に従い、桶狭間の戦で初陣を飾りました。・・・思い切った事をしますねwその後も織田軍の主要な戦に参加し、活躍したそうです。
1582年、織田信雄の城になりました。
城主・水野守次が明智光秀に味方したため、常滑城を退去しました。そのため、尾張の領主・織田信雄の城となりました。水野守次は京都に隠棲して茶の湯三昧の暮らしをしたそうですが・・・1598年に北野の茶会で豊臣秀吉に見つかり、自害させられました。
1584年、城主が暗殺されました。
城主・岡田重孝は織田信雄の家老の一人で、常滑城の城主でもありました。織田信雄が対立した羽柴秀吉は、織田信雄の三人の家老を引き抜こうと調略を仕掛けました。三人の家老はこの調略には乗らず、織田信雄への忠義を貫きましたが・・・織田信雄はこの動きを疑い、居城である伊勢長島城に三人を呼び寄せて殺してしまいました。岡田重孝の居城であった星崎城をはじめ、常滑城でも抵抗する動きがあったようです。そのため、常滑城は仮屋城の水野忠重により攻め落とされました。その後、徳川家康の家臣・高木広正が常滑500貫の領主として入城しました。
1590年、廃城となりました。
徳川家康が関東へ移封となり、これに従って城主・高木広正も常滑城を出ました。そのため城主不在となり、廃城となりました。
所在地:愛知県常滑市市場町
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