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常滑城/愛知県常滑市

常滑城も崖っぷちにありました。
訪問日は2014年8月4日です。

常滑城①見上げたところ
▲見上げたところ

常滑城はこの上にありました。すごい地形ですヾ(@☆▽☆@)ノ上に見える建物はお寺です。

常滑城②主郭
▲登り切った所

階段を登り切ると、そこには公園があります。カラフルな滑り台や鉄棒がある、何の変哲もない普通の公園にしか見えず。確かここだったハズですが・・・

常滑城③主郭の片隅に・・・
▲ハッケン(☆∀☆)

ありました!崖っぷちの木陰に。

常滑城④城址碑と説明板
▲城址碑と説明板

目の前まで来ればコッチのもの。あちこちで見る写真のブツがそこにありました!


◆歴史◆

1529年までに水野忠綱により築かれました。

水野忠綱は水野忠政の弟です。常滑城の初代城主であり1529年に没しているため、それまでには城があった事になります。常滑は当時高級品であった陶器の生産が盛んで、伊勢湾を中心に莫大な利益を生みました。当初は砦程度の規模でしたが、2代目・水野忠清の代に本格的な城として改修されました。常滑城を本拠とした水野氏は代々「監物」を称したため、水野監物家と呼ばれます。

1560年、水野守次が織田信長配下として初陣を飾りました。

水野守次は織田信長に従い、桶狭間の戦で初陣を飾りました。・・・思い切った事をしますねwその後も織田軍の主要な戦に参加し、活躍したそうです。

1582年、織田信雄の城になりました。

城主・水野守次が明智光秀に味方したため、常滑城を退去しました。そのため、尾張の領主・織田信雄の城となりました。水野守次は京都に隠棲して茶の湯三昧の暮らしをしたそうですが・・・1598年に北野の茶会で豊臣秀吉に見つかり、自害させられました。

1584年、城主が暗殺されました。

城主・岡田重孝は織田信雄の家老の一人で、常滑城の城主でもありました。織田信雄が対立した羽柴秀吉は、織田信雄の三人の家老を引き抜こうと調略を仕掛けました。三人の家老はこの調略には乗らず、織田信雄への忠義を貫きましたが・・・織田信雄はこの動きを疑い、居城である伊勢長島城に三人を呼び寄せて殺してしまいました。岡田重孝の居城であった星崎城をはじめ、常滑城でも抵抗する動きがあったようです。そのため、常滑城は仮屋城の水野忠重により攻め落とされました。その後、徳川家康の家臣・高木広正が常滑500貫の領主として入城しました。

1590年、廃城となりました。

徳川家康が関東へ移封となり、これに従って城主・高木広正も常滑城を出ました。そのため城主不在となり、廃城となりました。


所在地:愛知県常滑市市場町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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