2016/01/04
大野城/愛知県常滑市
大野城は伊勢湾を見渡す丘の上にありました。訪問日は2014年8月4日です。

▲案内図 拡大表示
北駐車場には城跡の案内図があります。・・・階段多い、かも?主郭に展望台と佐治神社、その下に2郭、かなり下った所が3郭っぽいですね。

▲階段
さて、登るか!

▲階段
踊り場でひと息

▲階段
あと160mか!

▲階段
まだ先かぁ

▲階段
トドメキタ━━(゚∀゚)━━

▲模擬天守
距離の割に長く感じましたが、ようやく主郭です。ここからさらに階段あったら萎えましたけどwちょっとアレな模擬ですが、城址碑の代わりだと思えば嬉しいものです


▲眺め
知多半島西岸のお城は、伊勢湾への睨みが利く所ばかり。それだけ海賊被害が多かったという事でしょうか。
◆歴史◆
1391年頃、一色詮範により築かれたと思われます。
別名・宮山城とも呼ばれ、足利氏一門の一色氏により築かれました。その時期は、一色詮範が尾張国海東郡・知多郡の分郡守護になった1391年頃と思われます。なぜ知多郡が一色詮範に与えられたのか、その経緯はわからず。もともとが三河の守護でもあったので、三河湾の権益維持が目的だったのでしょうか?知多半島を手に入れた一色詮範は、半島西岸に城を築いて伊勢湾の掌握にも乗り出しました。
1478年頃、佐治氏の城となったようです。
応仁の乱では、守護を解かれた三河をめぐり、旧守護の一色氏と新守護の細川氏が争いました。知多郡分郡守護の一色義遠は、三河守護の細川成之との戦いを優位に進めていました。しかし、三河守護代・東条国氏を自害に追い込んだ事で、細川成之が幕府への出仕を拒否。そのため、本家の当主・一色義直が三河には一切手を出さないと書面をしたため和睦しました。この和睦により一色義遠は知多分郡守護の任を解かれ、本国である丹後に移りました。一色氏が去った知多半島、細川氏が守護を解かれた三河は、切り取り放題の状態となりました。この時知多で台頭したのが、一色氏の代官・佐治氏と、東三河から海を渡った戸田氏でした。このような背景があり、一色氏が去った後の大野城は佐治氏の城になったものと思われます。その佐治氏の初代が佐治宗貞とされますが・・・没年が1532年なので、さすがに長生き過ぎやしないか?とは思いますw
その後、佐治氏は水軍を率いて伊勢湾の海上権を掌握。緒川の水野氏、河和の戸田氏と知多半島の覇権を競いました。2代目の佐治為貞が織田信長に従ったのは、桶狭間で今川義元を討った後とされます。織田信長は佐治氏の水軍力を重視し、妹の御犬の方を佐治信方に嫁がせました。以後、佐治氏は織田一門として扱われました。
1574年、佐治信方が討死しました。
伊勢長島の一向一揆討伐の際、一揆勢の反撃に遭い討死しました。まだ22歳だったそうです。子の一成はまだ幼かったため、祖父・為貞が後見しました。
1583年頃、佐治一成が江を娶りました。
江は浅井長政と市の次女です、数年前の大河ドラマの主人公です。しかし、継父・柴田勝家が羽柴秀吉との争いに敗れ、母の市とともに自害しました。市の三人の娘は羽柴秀吉により保護されたと考えられています。それから間もなく、羽柴秀吉の意向によりその1人である江が佐治一成に嫁ぎました。おそらくですが、羽柴秀吉が対立していた織田信雄の力を削ろうとしたためと思われます。
1584年、廃城となりました。
小牧・長久手の戦があり、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉が尾張で戦いました。佐治一成がどこで戦ったのかはわかりませんが・・・
佐治一成は戦の後、三河へ引き上げる徳川家康に佐屋の渡しで船を提供しています。佐屋街道は熱田から桑名を結ぶ海沿いのルートで、東海道の裏街道とされました。しかし、木曽川など数条の大河がひしめいており、何度も船で渡るため敬遠されたルートです。徳川家康がわざわざこのルートで退却したのには、何か理由があったのでしょうか?
この一件で羽柴秀吉が機嫌を損ね、佐治一成と江と離縁させた上に領地まで没収しています。羽柴秀吉が徳川家康にした極上の嫌がらせをチャラにした、ということでしょうか?以後、佐治一成は伯父である伊勢の織田信包に仕え、その筆頭家老となっています。
1980年4月、展望台が完成しました。
昭和55年と書いた方がしっくり来るでしょうか?見た目が綺麗だったので、もっと新しいのかと思っていました。以外に古いんですね!
所在地:愛知県常滑市金山
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