2016/01/03
亀崎城/愛知県半田市
亀崎城は神前神社裏の台地上にありました。訪問日は2014年8月5日です。

▲神前神社
お城があったのがこの神社の近く、ということで目印にしました。海に面した東側が神社の正面となっています。神社の境内は山の斜面をちょいちょい削平しており、さすが城跡!なんてウロウロしました。・・・が城址碑は見当たらず。ビミョーに場所が違ったようです。

▲神社裏の広場
神社の前から反時計回りに回り道して、裏手の空き地にやって来ました。半ばあきらめ気分で、ココに無かったら次行こうって感じです。斜面の上にある広場なので、お城向きの地形だな~とは思いました。

▲立派な石碑が・・・
広場の入口からジーっと怪しげな目つきで見渡すと、奥の方に何やら立派な石碑が。おし!ハッケソヽ(´∀`)ノとばかりに駆け寄りました。しかし、その石碑の表面には「神宮遥拝所」と彫られていましたwww

▲木陰にも石碑が!
「なんだ、ガセか、人騒がせな・・・」
完全に逆ギレですが、仕方ありません。人は自分の都合でしか考えられない生き物ですからwざーんねーん、次次♪などと口ずさみながら退却していると、木陰に何か見えちゃいました。
・・・もしや?

▲城址碑
大した寄り道でもないので近づくと、そこにあったのが城址碑でした。囲んでる木は落葉樹なので、冬場だったらもうちょっとハッキリ見えるかも。木々の葉が生い茂る真夏に見つけたのは、きっと日頃の訓練?の賜物だと思いました

◆歴史◆
1543年、水野信元により築かれました。
家督を継いだ水野信元は、それまでの親今川路線から、織田信秀方に鞍替えしました。それとともに知多半島統一に向け、各地に出兵しています。城主は稲生政勝で、以後亀崎水軍を率いて活躍しました。
稲生氏はもともとは伊勢の土豪で、鈴鹿サーキットの近くに城を構えていました。・・・鈴鹿サーキットは当時ありませんよw伊勢四十八家の一つに数えられていたそうですが、海を越えて知多へ移って来ました。稲生政勝は元々は「重勝」と名乗っていたのですが、水野忠政に仕えた際に一字もらったとか。
成岩城攻略を目指して築かれたようですが、水野信元はもっと先を見据えていたようです。成岩城の更に南には戸田氏が富貴城や河和城を築いていました。戸田氏はもともとは豊田市辺りの出身でしたが、戦国時代に三河の東側へ移動。その後渥美半島一帯を手中に収めるのですが、それより先に知多半島に手を出して来ました。ということで、成岩城攻略よりもその後の海戦を視野に入れての事と思われます。
1560年頃、松平元康の家臣になります。
桶狭間の戦で今川義元が討たれると、松平元康は独立して三河の切り取りを始めました。その後暫くの間は水野信元とも小競り合いを繰り返したそうですが・・・1562年、その水野信元の仲介により、松平元康は織田信長と同盟を結びました。この頃に水野信元の弟・忠重や、従兄弟の水野清久などが松平家へ出奔しています。水野氏は先代の水野忠政の頃は松平氏と親しくしていたそうです。敵ではなくなったので、普段から仲の悪かった一族が家出先を見つけたという事でしょうか。この頃に稲生政勝の子・政清も松平家に鞍替えしたようです。
1590年、稲生政清は相模国三崎へ移りました。
徳川家康の関東移封に伴い、相模国三崎へ移りました。そこでも水軍の将として扱われ、船奉行に任命されました。
1601年、廃城になりました。
この頃の城主は稲生政清の子・重政です。関ヶ原の戦で全国的に配置換えが行われ、亀崎は徳川家の直轄地となりました。そのため亀崎城は廃城となり、稲生重政は知多半島先端の師崎へ移りました。その後も水軍の将として活躍し、大坂の陣では豊臣方の船を21艘も捕えたそうです。
所在地:愛知県半田市亀崎2丁目
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント