2015/12/27
阿久比城/愛知県阿久比町
阿久比城跡は公園になっています。別名・坂部城とも呼ばれます。訪問日は2014年8月5日です。
▲登城口
登城口は図書館の駐車場になっています。早朝にも関わらず開いているのがありがたいです


▲主郭
駐車場脇の緩い坂道を登り切った所が主郭です。要害堅固なお城というより、見晴らしのいい台地に館を築いたという感じがします。周囲には低いながらも土塁が巡っています^-^
◆歴史◆
菅原道真の子孫と称する菅原道定が、足利義満からこの地を与えられました。
北朝方として活躍した菅原道定が、遠い先祖が治めていたとされる阿古居荘を与えられました。その20代ぐらい遠いご先祖様は善政を敷いていたとして、村人には人気があったそうです。ホントかよ?って思っちゃうお話ですwその遠祖・雅規が「久松麿」と呼ばれていたため、それ以来久松姓を名乗るようになりました。どうせならまんま「菅原」の方が、めんどくさい説明要らないと思うのですがw
築城年代は不明です。
言い伝えでは、9代目の久松定益、またはその子・久松定義が城を築いたとされます。時期的には西暦1500年頃で、尾張守護・斯波氏が遠江を巡って今川氏と争った頃です。久松氏は斯波氏の被官だったそうで、三河国境に近いと何かと心配だったのでしょうね。
戦国時代は織田氏に従っていました。
尾張の実権は斯波氏から織田氏に移り、久松氏も織田信秀に従っていました。また、近隣の水野氏とは婚姻関係にあり、久松勝俊は大高城主・水野大膳の娘を娶っています。しかし、長男・信俊を生んだ後没したため、水野信元の妹・於大の方を後妻に迎えました。久松勝俊と於大の方の間には、三人の子が生まれました。・・・これが運命というヤツですねw
1560年、松平元康が訪ねて来ました。
桶狭間の戦の時、松平元康が阿久比城に居た母・於大の方を訪ねました。たぶん、今川義元が討たれて大高城から三河へ戻る途中と思われます。松平元康の逃避行には、伯父の水野信元が関わっていましたので。母と三人の異父弟に会った元康は、葵紋と松平姓を与えました。
1562年、久松勝俊と於大の方、三人の子が松平元康のもとへ移りました。
久松勝俊は、長子・信俊に阿久比の地を譲り、松平元康のもとへ移りました。織田信長の家臣だったのですが、清洲同盟が成立したためと思われます。久松勝俊は三河国にある上ノ郷城を与えられ、三河平定戦で活躍しました。三人の子はそれぞれ大名格にまで出世しました。
1577年、佐久間信盛により攻め滅ぼされ、廃城となりました。
この前年、佐久間信盛は水野信元を讒言により暗殺しています。これにより、久松信俊は佐久間信盛の与力に配されました。そのため、大坂での石山本願寺との戦に駆り出されたのですが・・・またしても佐久間信盛の讒言により、本願寺と内通していると疑われました。憤懣やるかたない久松信俊は、身の潔白を示すため自害して果てました。ところが、佐久間信盛は阿久比城に兵を差し向け、城を攻め落としました。阿久比城に居た久松信俊の2人の幼子も捕らえられ、殺害されてしまいました。
1647年、桑名藩主・松平定綱が城跡に松・杉・桧を植えました。
松平定綱は、久松信俊の末弟・松平定勝の三男です。尾張藩主・徳川義直に許しを得て、城跡に松・杉・桧を1000本ずつ植えました。
所在地:愛知県知多郡阿久比町卯坂
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