2015/12/27
村木砦/愛知県東浦町
村木砦跡は八剣神社になっています。訪問日は2014年8月4日です。
▲八剣神社
砦跡には八剣神社があります。この神社は水野信元の家臣が、ここでの戦死者を弔うため建てたそうです。

▲説明板
なので、説明板も神社の縁起ではなく、村木砦の戦いについて書かれています。この戦いの報告を聞いた斎藤道三は「隣に恐ろしい奴がいる」とビビッたそうです。

▲城址碑
場所がわかって詳しい説明板までありますが、さらに石碑まであります

◆歴史◆
1553年末から1554年はじめに掛けて、今川義元により築かれました。
今川義元は織田信長に味方する水野信元を降そうと、周囲からジワジワ攻めました。まずは織田信長が三河の尾張国境近くに築いた拠点・重原城を攻め落としました。重原城は刈屋城から4km弱しか離れていません。
更に、水野信元の居城・緒川城の北2km弱の至近距離に、村木砦を築きました。これにより、すぐ西の花井氏が今川義元側に寝返っています。
花井氏の北側では、鳴海城の山口教継、戸部城の戸部政直が既に今川方となっていました。そのため、織田信長と水野信元の連携は絶たれ、水野信元の命運は風前の灯でした。
1554年、織田信長により村木砦が攻め落とされました。
織田信長が水野信元を救援する場合、陸路で援軍を送ることは不可能でした。そのため、織田信長は船で知多半島に渡ることを選びました。当時はまだ清洲城の織田信友と対立していたため、留守を斎藤道三の援軍に依頼しました。
出陣した「その日」は生憎の荒天で、船頭達は船出を拒否したそうです。しかし、織田信長は強引に船を出させて知多半島に上陸。今川方に寝返った花井氏の寺本城を威嚇し、緒川城近くで野営しました。翌日緒川城に入って水野信元と打ち合わせ、その翌日に村木砦を攻めました。
この戦で織田信長は、鉄砲を連射して砦の狭間に居る敵兵を撃ったそうです。朝から始まった戦は夕方、砦方が降参することで決着がつきました。
この戦の後、織田信長は帰り道にあった花井氏の吉川城や藪城を攻め落としました。さらには花井氏の本拠・寺本城にも攻め掛かり、城下を焼いて引き揚げたそうです。
所在地:愛知県知多郡東浦町森岡取手
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