2013/03/31
岡津城/神奈川県横浜市泉区
あいにくのお天気なので思い出しブログです。2011年11月5日に訪ねた城跡です。
・・・随分と放置しました

ルートは東京方面から国道1号を下り、バイパスとの分岐である「不動坂」を右折します。ここからは県道401号となり、「岡津小学校入口」を右折します。するとすぐに↓の青い橋が見えます。

▲鷹匠橋
この青い橋が大手口に当たるそうです。ここもやはり川を堀の代わりにした丘城のようです。

▲岡津小学校
橋からまっすぐ進むとすぐに岡津小学校の前に至ります。ここは後北条氏滅亡後に陣屋が置かれていました。

周囲よりも一段高い地形は郭の名残なのかもしれません。お城ばかり見ていると、どんな地形もそれらしく見えてしまいます。本当に郭の跡だとは思いますが・・・w

▲三嶋神社前の土塁
道なりに登っていくと、神社の目の前にいかにも土塁らしきものが現れます。これは城跡ばかり回っているせいではなく、正真正銘の土塁ですねw一気にテンションが上がります


▲三嶋神社
三嶋神社の境内を見ると、地形が三段になっているのがわかります。これも郭の名残だそうです。

▲主郭と土塁
さらに登ると頂上に辿り着き、テニスコートがあります。三嶋神社の裏側であり、岡津中学校の第2グラウンドとなっています。ここが主郭の跡とされています。その東側には土が盛ってあり、その上に道が通っています。これも土塁の跡です。
主郭の写真も撮りたかったのですが・・・丁度女子中学生たちがテニスをしていました。そこでカメラを振り回す勇気のない小心者なので、周りだけ撮って帰りました。
◆歴史◆
岡津城の築城年および築城者はわかっていません。室町時代には扇谷上杉定正の養子・朝良が城主を務めました。
扇谷上杉氏は関東管領・山内上杉氏の分家の中では最も力がありました。武蔵国の河越城を本拠としていましたが、相模守護として相模にも影響力がありました。両上杉氏はそれまで協力して古河公方と戦っていました。
しかし、1477年の長尾景春の乱をきっかけに両家の関係は悪化。この乱の鎮圧で大活躍した太田道灌も、1486年には主である扇谷上杉定正により謀殺されました。ここから扇谷上杉氏の没落が始まります。
山内上杉氏と対抗するため、扇谷上杉氏は駿河の今川氏に協力を求めます。この時援軍に来たのが伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)でした。宗瑞は1493年に扇谷上杉氏の要請で堀越公方を攻め滅ぼして、今川氏から独立しました。
1494年に当主・定正が山内上杉氏との戦いで戦死すると、朝良が当主となり河越に移りました。その後も宗瑞との協力関係は続き、翌年には大森氏の小田原城を陥落させました。
宗瑞は相模国内の山内上杉方の拠点を次々と攻め落としましたが・・・攻め落とした所を自分の領地に加えていきました。まるで火事場泥棒ですねw扇谷上杉氏にはそれを咎めるだけの力はもうありませんでした。
そして1510年、宗瑞が扇谷上杉氏の重臣・上田氏に謀反を勧めていたのがバレたのです。朝良はそれまで戦っていた山内上杉氏や古河公方を和睦し、伊勢宗瑞との対決を決意したのです。この時の戦いが権現山城の戦いで、両上杉氏が勝利しました。
宗瑞の野望はこれまでかと思われましたが・・・山内上杉氏と古河公方のそれぞれで内紛が始まってしまいました。朝良はそれぞれの仲裁に立ち回る始末。
そうこうしている内に宗瑞は堂々と相模を侵食するようになりました。相模の扇谷上杉氏の主力は三浦一族でした。
1512年に宗瑞は三浦義同の岡崎城(平塚市)を攻略。義同は次第に東へ敗走し、本拠である三浦半島に逃れました。
宗瑞は三浦半島攻略の足がかりとして、翌年玉縄城を築きました。玉縄城は三浦半島の付け根にあり、扇谷上杉軍の援軍を牽制する役割を果たしました。位置的に玉縄城はとても近いので、この頃までに後北条氏のものとなっていたと思われます。
後北条氏は岡津城を太田大膳亮に与えました。太田姓ですが三善氏の出であり、太田道灌とは血縁はありません。
大膳亮は江戸衆に属し、柴崎城(東京都千代田区)を本拠としていました。岡津のほかにも矢向(横浜市鶴見区)や平間(川崎市中原区)にも所領を持っていました。1578年に越後であった御館の乱では、上杉景虎の援軍として越後まで出向いています。
1590年に後北条氏が滅びると、徳川家康の家臣・彦坂元正が当地の代官となりました。その拠点として南郭(岡津小学校)に陣屋を築きました。彦坂元正は代官として活躍し、検地や東海道の一里塚設置などで活躍した人です。1606年に理由は不明ですが改易され、この時陣屋も廃されました。
所在地:神奈川県横浜市泉区岡津
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