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岩崎城/愛知県日進市

岩崎城にはカッコイイ模擬天守があります。訪問日は2007年5月4日です。

岩崎城①案内図
▲案内図 拡大表示

城めぐりを始めた頃、遠乗りを兼ねて訪ねました。こうやって図を見ると、堀とか土塁とかあるんだなーって見えますが・・・当時は全く何も見えず、模擬天守へ向かってまっしぐら!でしたw

岩崎城②模擬天守
▲模擬天守

その模擬天守がこれです。何となくですが、岐阜の奥地にある神岡城に似てる気がします。ってことで、↓にちょっと貼ってみました。

神岡城/④模擬天守
▲神岡城の模擬天守

似てると思ったのは、最上階がフェンスで覆われてるからですね。そこから下がぜんぜんって、昔はこんな細かい所気にならなかったんですけどね・・・病は進行中だと確認できましたあせる


◆歴史◆

享禄年間(1528~32年の間)に織田信秀が築いたとれます。

織田信秀は織田信長の父親で、尾張下四郡守護代・清洲織田家の三奉行の一人でした。織田信秀の居城は尾張西部でしたが、尾張東部へと勢力を拡大している時期でした。一方、東では徳川家康の祖父・松平清康が三河を統一し、尾張へ勢力を拡大しつつありました。

1529年、松平清康により攻め落とされました。

織田信秀は荒川頼宗を守将に置きましたが、松平清康に攻められ落城しました。荒川頼宗は討死し、生き残った一族は出身地の星崎へ逃れたようです。松平清康はこの年に尾張北東部の品野城も攻め落とし、版図に加えています。

1535年頃、丹羽氏清が岩崎城を乗っ取りました。

松平清康が尾張東部の守山城を攻めた際、家臣に斬り殺される事件がありました。俗に『守山崩れ』と呼ばれ、ここから三河の混乱が始まりました。奪われた岩崎郷を取り戻す絶好の機会ですが、なぜか織田軍は岩崎城を取り戻していません。空白地帯となった岩崎城へ入ったのは、近在の土豪である丹羽氏清でした。丹羽氏清は本郷城を居城とする独立勢力で、日進市一帯を支配していました。国境地帯の土豪達は、その時々の旗色を見て仕える相手を変えていました。織田信秀は、丹羽氏清に間借りして岩崎城を築いていたのかもしれないですね。

以下しばらくは近在の動向を書きます。

1540年、織田信秀が三河の安祥城を攻略
1542年、第一次小豆坂の戦で織田軍が勝利し、西三河を支配下に置く。
1544年、刈谷城主・水野信元が織田信秀に寝返る。
1547年、松平広忠が今川義元に出した人質・竹千代が織田信秀に奪われる。
1548年、第二次小豆坂の戦で松平・今川軍が勝利、三河は無主状態に。
1549年、今川軍が安祥城を攻略、松平竹千代が今川義元へ引き渡される。
1552年頃、織田信秀の没後、山口氏や戸部氏が今川義元に寝返る。

さすが国境地帯だけあって、色々あったんですね・・・

1551年、丹羽氏清が織田信長と戦いました。

これは丹羽氏内部の抗争によるものです。藤島城主・丹羽氏秀は分家で、主家である丹羽氏清の排除を目論んでいました。丹羽氏秀は織田信長に加勢を依頼し、東西から挟み撃ちにしました。この戦いは『横山の戦』と呼ばれ、丹羽氏清が勝利しました。尚、丹羽氏清軍は伏兵を置いて織田信長の軍勢を撃退しましたが・・・これが後々仇となります。

1555年、守山城の篭城戦に丹羽氏勝が参加していました。

守山城主・織田信次は、信長の清洲城乗っ取りで大活躍した信友の弟です。この時の功により兄が那古野城へ移ったため、弟の織田信次が守山城の城主となりました。しかし、間もなく家臣が誤って織田信長の弟・秀孝を射殺す事件がありました。そのため織田秀孝の兄で信長の弟・信勝が守山城を囲み、信次は行方を眩ませました。・・・みんな信の字が付くので混乱しますねあせるこの時に織田信次の家臣団は守山城に篭城しており、その中に丹羽氏勝の名があります。丹羽氏勝は丹羽氏清の孫であり、守山城の指揮系統に属していたようです。

ただ、この辺りの丹羽氏の動向がよくわからないのです。国境地帯の独立勢力だったため、松平元康と織田信長の両方からラブコールがあったそうです。両者から誘いを受けてはいましたが、先年の戦もあって丹羽氏識は松平元康を選びました。丹羽氏識は丹羽氏清の子で、丹羽氏勝の父です。これにより三河国内にも所領が与えられたらしいのですが・・・上手いこと立ち回って、両方にいい顔していたのかもしれませんね。

1560年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれました。

この時の丹羽氏の動向がサッパリですハートブレイク丹羽氏識は、清洲同盟が結ばれてから織田信長に仕えたとされます。ということは、松平元康に従って大高城の攻防戦に参加していたかもしれません。

1562年、丹羽氏識は織田信長の家臣となりました。

織田信長と松平元康が同盟を結び、尾張に本拠のある丹羽氏は織田信長の家臣となりました。ただ、これ以後も松平元康から与えられた三河国内の所領は安堵されていたそうです。この頃に丹羽氏勝が城主となり、織田信長の各地の戦に参戦するようになりました。

1580年、丹羽氏勝が追放されました。

織田家筆頭家老の林秀貞やナンバー2の佐久間信盛と一緒に、丹羽氏勝も追放されました。この直前に安土城近くで鷹狩りの際に、丹羽氏勝の家臣が誤って巨石を落としていますが・・・追放の理由は「先年逆心を抱いたため」だそうです。丹羽氏勝は各地を放浪し、最終的には次男・氏重の傍示本城で余生を過ごしたそうです。丹羽氏自体には類が及ばず、所領も安堵されていましたが・・・1582年の本能寺の変で織田信長が斃れ、当主となった丹羽氏次は織田信雄に仕えました。しかし、主君と対立して徳川家康に仕えるようになりました。

1584年、小牧・長久手の戦で戦場となりました。

小牧・長久手の戦では、丹羽氏次は徳川家康とともに小牧へ参陣し、武功を挙げました。この時、岩崎城は弟の丹羽氏重が守っていました。主戦場は尾張の反対側だったので、まさかここまで来るとは想定しなかったかもですが・・・来ちゃいましたw

羽柴軍の重鎮・池田恒興や暴れん坊・森長可が、徳川家康の本拠・三河へ奇襲に出たのです。三河奇襲隊は岩崎城の前を通りましたが、小さなお城だったので無視する予定だったそうです。しかし、丹羽氏重は敵が目の前を通るのに何もしないのは恥だと、僅か300の手勢で攻めました。攻められた池田・森軍は織田軍きっての精鋭部隊で、兵力も7000程でした。

ちょっかい出されて我を忘れた三河奇襲隊は、ムキになって岩崎城を攻めました。岩崎城は守りが固く手こずったようですが、やがて落城し、城方は玉砕しました。やぶれかぶれもいい所ですが、これが戦局を大きく変えました。

岩崎城攻めに時間を費やす間に徳川家康の軍勢が追いつき、長久手で戦となりました。
この戦で池田恒興や森長可など、主だった武将が相次いで討死したのです。

戦後、丹羽氏次は徳川家康のとりなしで、旧主・織田信雄に再び仕えることとなりました。丹羽氏次は伊勢に7000石の領地を与えられました。徳川家康が織田信雄の内部事情を探らせるための布石だったのでしょうか・・・1590年、織田信雄が改易されると、丹羽氏次は豊臣秀次に仕えるようになります。

1600年、関ヶ原の戦の後に廃城になったとみられます。

丹羽氏次は東軍につき、徳川家康に岩崎城の守備を固めるよう命じられたそうです。そのため、この頃まで岩崎城はあったものと思われます。丹羽氏次はただ城を守るだけでなく、味方の城の改修を手伝ったり本戦にも参戦しました。これらの功により三河国伊保に1万石を与えられ、大名となりました。


せっかくなので、以後の状況をザックリ書きます。

1601年、丹羽氏次は52歳で没し、丹羽氏信が家督を継ぎました。丹羽氏信は1万石の加増を受け、美濃国岩村に移りました。江戸時代にはお家騒動を起こして越後国高柳1万石に減封されました。その後、播磨国三草1万石に移り、そのまま明治時代を迎えています。

1987年、模擬天守が建てられました。

岩崎城址公園として整備され、展望台として模擬天守が建てられました。今だったらとても実現しそうにないのですが、まだまだ自由な時代だったんですねw


所在地:愛知県日進市岩崎町

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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