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岩作東城/愛知県長久手市

岩作東城は長久手市役所付近にありました。訪問日は2014年8月3日です。

岩作東城①市役所
▲長久手市役所

岩作東城は長久手市役所を北端として、その南側にありました。お城は方形の単郭で、すぐ南の商業施設が中心部だとか。北側の堀が辛うじて市役所の敷地に掛かっていたそうで。ついさっき、現在の地図と比較した図が載ったサイトを見つけて知りましたあせる

遺構は埋め戻されたため、直接見ることは出来ません。・・・かといって、商業施設をどけて拝むなんて、私の目の黒い内は無いでしょう。そこまでして見たいか?と訊かれれば、そうでもないですけどw

岩作東城②城址碑
▲城址碑

市役所の南東角の交差点脇に、この城址碑があります。パッと見渡してすぐには見つからず焦りましたが・・・交差点脇に低い桜の木があり、その葉っぱの陰で見つけました。城址碑には「東」の文字がありません。岩作の中心はここだったと思われますが、西にもお城があったそうです。そちらは江戸時代にはすでに完全に田んぼになっており、地名だけ残っていたそうです。・・・と『尾張志』に書かれているそうです。


◆歴史◆

14世紀後半に今井四郎兵衛が築城したとされます。

1985年から3度に渡って行われた発掘調査の結果、14~17世紀のお城だったそうです。ご他聞に漏れず、ここの今井氏も木曽義仲四天王の1人・今井兼平の子孫と称していました。ただ、色々調べていると、そのルーツは意外な所にありました。それは、春日井市にあった上条城の林氏です。

織田信雄分限帳で、吉田城主・小坂雄吉は柏井と岩作を領有していたというのです。小坂雄吉は、1555年に織田信長が清洲城を奪った後に小坂氏の家督を継ぎました。この時、すぐ隣の林氏が織田信長に領地を献上して帰農しています。そのため、小坂雄吉は吉田城の小坂氏領と、上条城の林氏領を加えて家督を継いでいます。林氏も今井兼平の子孫を称しており、鎌倉時代に佐渡から尾張に来て上条城を築きました。一時は近江へ移っていましたが、14世紀初め頃に尾張に戻って来て林姓に改姓しました。ここから岩作へ移って開拓した一族が居た、なんて推測も出来ます。

1584年、廃城となりました。

あちこちでよく書かれているのは、小牧・長久手の戦の時の城主は今井四郎兵衛でした。続柄は不明ですが、今井四郎三郎が岩崎城で丹羽氏重とともに玉砕しています。春日井市の郷土史かすがい第33号では、今井小八郎が岩崎城で討死したと書かれています。・・・よくわかりませんが、岩作の今井氏が岩崎城で一緒に立て篭もったということですね。岩崎城の丹羽氏が長久手まで勢力を拡大していた、ということの表れでしょうか。

すぐ近くの大草城は森長可の城で、長久手での敗戦後に羽柴方が逃げ込んで篭城しました。今井氏がその反対勢力の岩崎城で篭城していたというのは、興味深いですね。


所在地:愛知県長久手市岩作(長久手市役所)

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故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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