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上菱野城/愛知県瀬戸市

上菱野城は本泉寺となっています。訪問日は2014年8月3日です。

上菱野城/①本泉寺
▲本泉寺

上菱野城の跡地には、山田泰親が開基した本泉寺があります。もともとは別の場所にありましたが、江戸時代にココに移されました。地形を見ていると、南側が開いた馬蹄形の丘が居館を囲んでいます。当時主流だった殿谷戸形式のようですね!

上菱野城/②本泉寺
▲本堂

遺構はまったく期待していませんでしたが・・・本堂とその周りの地形が、いかにも城跡っぽいです。こういう威厳のある城跡のお寺も悪くないですね恋の矢


◆歴史◆

平安時代に源重定が菱野にやって来ました。

菱野城の説明板によると、1079年に源重定が菱野城を築いたとされます。このきっかけとなったのが、美濃国内での源氏同士の合戦でした。源重宗と源国房が郡上で派手な戦をしたため、両者とも朝廷から罰せられました。討伐に来たのが源義家で、この縁で孫の重遠に義家の娘を娶っています。この時に尾張国春日井郡浦野へ移ったとされます。その源重遠の弟が重定で、山田郡のこの地に館を構えました。・・・色々読む限りは、勝手に住み着いた感じです。

1221年、承久の乱で山田一族が討たれました。

当時の山田荘の地頭は山田重忠で、尾張国内にかなりの所領を持っていたようです。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと挙兵すると、山田重忠は上皇に味方しました。山田氏は都で上皇の警備が主な任務だったため、朝廷との関わりが深かったとされています。戦の指揮を執ったのは都育ちの貴族で、奮戦虚しくあっと言う間に京へ追い詰められました。最後は御所にも入れてもらえず、数に勝る幕府軍に追われて嵯峨般若寺山で自害しました。山田重忠の嫡男・重継は討たれ、嫡孫・兼継は越後へ流罪となりました。

山田泰親と山田親氏が地頭となりました。

承久の乱後、山田氏は山田兼継の弟・山田重親の系統が残りました。年代不明ですが、山田重親の子・泰親が上菱野、泰親の弟・親氏が下菱野の地頭となりました。ここは上菱野城と呼ばれているので、菱野城が下菱野でしょうか・・・?

1283年、廃城となりました。

山田泰親が出家して子の山田重元に地頭職を譲り、廃城となりました。この時に山田郷内に本泉寺を開基したそうです。

1613年、城跡に本泉寺が移されました。

元々は300m程南にあった本泉寺が、上菱野城の跡地に移されました。何があってそうなったのかはわからず・・・よくあるのは火事で焼失したとか、洪水で流されたとかですが、どうなんでしょう?


所在地:愛知県瀬戸市矢形町(本泉寺)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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