2013/03/24
浜居場城/神奈川県南足柄市
沼田城の次は浜居場城跡へ。足柄峠につながる県道78号を西へ向かい、「21世紀の森」への案内看板で右折します。「21世紀の森」への案内は随所に出ているので、迷わず行くことが出来ると思います。

▲21世紀の森の途中までは車でも登れます
21世紀の森に入っても、しばらくは車道が続きます。「出来るだけ上まで楽したい!」のが人情ですが・・・上部駐車場の入口から先は、ゲートが閉じられています。したがって、ここからは徒歩です。

▲駐車場からは徒歩でセントラル広場を目指します
徒歩といっても、最初は傾斜も緩い綺麗な道です。急斜面をジグザグに登るのですが、かなりの高さを登っても楽でした。この調子なら楽勝!と甘く見ていたのですが・・・・

▲最初は緩かった道もだんだんキツく
道は少しずつ少しずつ険しくなり・・・緩かった坂道に段がつくようになり・・・その内普通の山登りになってきました。重力に逆らうのって本当にキツイ


▲セントラル広場
息を切らして辿り着いた広い場所。そこがセントラル広場です。駐車場からここまで大体30分かかりました。

▲セントラル広場からは舗装された道を登ります
セントラル広場からは、左手にある舗装された道を登ります。訪問当日はこの道で何やら工事をやっていました。↓の防災無線施設までワイヤーを張っていました。ここにまた何かを造るのかもしれません。

▲防災無線中継施設の跡
古いブログや地図にはここに無線施設があると書かれています。今は写真の通り何も無い広場です。そしてここから坂がキツくなります・・・

▲舗装道終わり!
舗装されているとはいえ、傾斜がキツイです。その舗装も途中で終わり、ここからは未舗装の山道に。「あぁ、ここからもっとキツくなるのか・・・」と覚悟を決めると

▲説明板
5分位で傾斜が緩くなり、道の脇に何やら白い板が!ついに辿り着きました!遭難せずにwセントラル広場からは大体20分くらい。駐車場からは50分強かかりました。

▲説明板の拡大 拡大表示
こんなとんでもない山奥ですが、とても丁寧な説明板が設置されています。しかも実測の縄張図付き


▲説明板にある縄張図 拡大表示

▲朽ち果てた城址標柱
説明板の2mほど先には朽ち果てた城址標柱が。長い年月山城好きな

▲土塁
縄張図からすると、道の右側の奥にあるはず・・・!ありました。ほんの少しですが、主郭のへりにわずかな土の盛り上がりが。高さは1mもありませんが、主郭に沿って土塁があります。土塁の下は腰郭のようで、幅10mほどの細い平場が主郭を囲むようにしてありました。

▲堀切
主郭を過ぎる辺りで少し道が窪んでいます。そしてまた元の高さに・・・!どうやら堀切の跡のようです。富士山の噴火による火山灰でかなり埋もれたそうですが、それでも何となくわかります。

▲食違い虎口
道を西へ西へと進んで行くと、2、3箇所道が蛇行している箇所があります。写真は城域から急に下り坂になる所で「それらしく」蛇行しています。何となくですが、食違い虎口のように見えます。
虎口っぽい形状は主郭の西側でだけ見ることができました。素人目にも西からの攻撃に備えた造りになっていることがよくわかりました。
◆歴史◆
1416年の上杉禅秀の乱で活躍した大森頼春に、相模西部が与えられました。大森氏はその後、河村城など近隣の勢力を次々と制圧し、相模西部の広い範囲を支配しました。
1495年に伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏より小田原城を奪います。その後も大森氏は抵抗を続けますが、1500年に浜居場城も奪われました。
浜居場城は御殿場から足柄峠を越えて相模に至る街道を抑える役割がありました。重臣・松田氏配下の須藤源次郎、村野安芸守、小澤孫七郎が交代で城番を努めています。
武田信玄が三国同盟を破棄した1568年からは警備が特に厳しくなったと思われます。浜居場城でのルールは、例えば薪は東側でだけ採るなど、「はまいは掟」で決められていました。北条氏は足柄峠からの通行を禁じ、通行者は身柄を確保して小田原に報告していました。1579年にその報告が多数あったようです。
しかし、1590年に北条氏が滅ぼされると役割を終え、廃城になったようです。
所在地:神奈川県南足柄市内山
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