2015/11/14
新居城/愛知県尾張旭市
新居城跡は公園となっており、模擬天守があります。訪問日は2014年8月3日です。
▲城山公園の案内図 拡大表示
こんな立派な図があるお城は久しぶり


▲模擬天守・旭城
そんな不安を煽ったのがこの建物。パッと見でわかるニセモノです。これは1978年に建てられたもので、中は色々だそうです。・・・入ってないのでわかりませんw

▲土塁
淡い期待を持ちつつ公園内を歩き回っていたらありました!かなり低くなってしまっているようですが、人工的に盛られた土の列。カーブが緩いので、かなりの規模がありそうです。

▲討ち取られた敵?
この公園には少々変わった趣向があるようです。こんな石像が置かれていました。3つ仲良く並べられた首は、どれも白目・・・夜中にココ通りたくないですね

◆歴史◆
1361年、水野良春が移って来ました。
志段味城を本拠とする水野良春が、山野を開拓して移って来ました。水野氏は平安時代から山田郡水野郷と志段味郷を支配していました。宗家の居城は入尾城で、一時美濃へ移ったため、こちらは庶流と思われます。
1460年頃、水野宗国が本格的な城を築きました。
水野良春が移って来た頃は居館だったと考えられています。これが現在残る形なのかはわかりませんが、土塁は東側に備えた感じがします。この頃の東側では、三河から松原一学が移って来て今村城や本地城を築きました。松原氏はかなり遠くから移って来ているのですが、その経緯はわかりませんでした。さらに松原一学の子・松原広長の代には更に勢力を拡大しています。すぐ東側なので、水野氏は脅威に感じたかもしれません。
ただ、当時争っていたのは西側の大森城主・尾関氏でした。尾関氏とは1390年頃から水利を巡って争いが絶えなかったそうです。水野宗国は応仁の乱の頃に大森城を攻め落とし、尾関氏の領地を奪いました。
1482年、品野城の長江利景が松原広長を破りました。
瀬戸市東部の桑下城主・長江利景が、松原広長を討ち取りました。長江氏は美濃の斎藤氏に仕え、水野郷の支配権を巡って松原氏と争っていました。当主を討たれた松原一族は、水野氏良春の弟・照昌の子孫・毛受氏の元に逃れました。松原氏の旧領には、ちょうどこの頃に浅井氏が城を築いています。この浅井玄蕃充・源四郎兄弟も、出自や事跡等サッパリ???です

廃城時期等わからず・・・
新居村に屋敷を持つ水野雅楽宗久が織田信長に仕えていたと、『尾張誌』に記載があります。これには続きがあり、仔細あって水野宗久は浪人したと書かれています。なので、何があったのかは?ですが、1560年頃まで水野氏は新居城を居城としていたようです。
この辺りは水野氏が多いので、他の水野氏の動向が沢山出てきて区別するのが大変でした。せっかくなので・・・
美濃に移っていた水野致正が、1547年に水野郷に戻ってきました。水野致正は「上水野郷に住む」と書かれており、それは元の入尾城の近くでした。ということで、こちらは水野氏本家なので、新居城とは別系統です。
さらに・・・水野良春の弟・照昌の系統は、すぐ南の稲葉村に移り、毛受氏を名乗っていました。戦国時代に毛受勝照が活躍しており、最終的には1万石の大身にまで出世しています。毛受勝照は12歳から柴田勝家に小姓として仕え、数々のエピソードがあります。地図を見てビックリですが、柴田勝家の下社城までは約5kmしか離れていないんです。1571年、伊勢長島一揆討伐の際、一揆勢に奪われた五幣を奪い返しました。ただし、奪還したのは実は毛受勝照ではなく、水野勝正だったというお話です。水野勝正はその後さぞ大活躍したのかと思いきや、その後は水野郷に引き篭ったそうです。この「水野郷」も入尾城近くなので、さっきと同じ本家の人でした。
さらにさらに・・・もういいですか?これから南下するに従って、水野氏パニックとの戦いが続きそうです

1978年、模擬天守が建てられました。
尾張旭市に建ったお城ということで、旭城と名づけられました。ここは新居城というお城があった場所なのですが・・・1階レストラン、2階和室、3階休憩室、4階展望室だそうです。2階から上の違いは、眺めがいいかどうかくらいでしょうか。しかも、ここでレストランって採算取れるのでしょうか?余計な心配をしてしまいます。
所在地:愛知県尾張旭市城山町長池下
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