2015/11/11
入尾城/愛知県瀬戸市
入尾城跡には八幡社があります。訪問日は2014年8月3日です。
▲道から
入尾城跡にある八幡社は、庄内川沿いにあり、橋を北から渡ってすぐの所です。この橋は一方通行なのですが、南から北へ行くには?なんてついつい考えちゃいます。地図見てても近くに橋が無いんですよね・・・余計な心配してますw

▲鳥居
橋からちょっと進んだカーブの内側に鳥居が見えます。ここが八幡社、と鳥居に書かれていました。今は鎮守の杜に覆われていますが、お城だった時はきっと違いますよね?

▲社殿
その鬱蒼と茂った鎮守の杜に囲まれて、石段上に社殿があります。社殿というよりは祠なのかもしれません。お城と館と同じように、社殿と祠も境界が曖昧な気がします。神様をお祀りしていることには変わらないのですがw
八幡社って源氏が祀ってる神社?なんて思っていましたが・・・調べてみると「武運の神様」だそうで、源氏も平氏も関係無いことがわかりました。どうでもいいのですが、気になってたものでw
◆歴史◆
平安時代後期、滝口景貞により築かれました。
滝口氏は尾張平氏・長田氏の庶流です。滝口景貞が入尾城を築いたのは1129年という説や、1156~59年の間などの説があります。水野郷に入った滝口景貞は、地名から水野姓を名乗るようになりました。尾張で水野氏というと、徳川家康の重臣を思い浮かべますが・・・あちらのご先祖様は源氏であり、知多郡を中心に栄えた別の氏族です。・・・同族で、あちらも平家という説もあるそうです。こちらの水野氏は山田荘水野郷(瀬戸市)や志段味郷(名古屋市守山区)を代々支配しました。
源平合戦の頃の当主は水野高家でした。
平安時代末頃、尾張平家の嫡流である長田忠致は源義朝に従っていました。源平の戦いなんて言われますが、源氏方に平家が居たりその逆もあったりと中々複雑です。しかし、平治の乱で源義朝が敗れると、長田忠致は自らを頼って来た主君を討ち取りました。その首を持って平清盛の元へ赴き、恩賞として壱岐守となりました。ただ、長田忠致は美濃か尾張の国司にしろと、不満を漏らしたそうです。その後、源頼朝が平家を滅ぼそうという状況になると、長田忠致は源氏方に鞍替えしました。源頼朝は寛大にも「懸命に働けば美濃尾張を与える」と約束したそうです。そして平家が滅びると、源頼朝は父の仇・長田忠致に身の終わりを与えたそうで・・・w水野氏はその後も続いているので、とばっちりは喰らわなかったようですね。
1221年の承久の乱で、水野氏は山田重忠に従いました。
源平合戦の後、山田郡一帯は山田重忠が支配しました。この頃の当主は水野高康です。承久の乱では山田重忠・水野高康は後鳥羽上皇方として、鎌倉幕府と戦いました。この戦いで山田重忠は京で敗れて自害し、水野高康は嫡男・有高を失いました。水野高康は弟・高俊を養子とし、自らは京に移り住んだそうです。
南北朝時代に内紛がありました。
水野致氏の没後、嫡男・水野致顕が幼かったため、水野致氏の弟・水野致国が後見しました。水野致国は1335年、入尾城の南東約2kmの所に大平山城を築きました。水野致顕が成長してもそのまま居座ったため、支配権を巡り内紛となりました。観応の擾乱が始まると、水野致国は足利尊氏、水野致顕は足利直義→朝廷方となりました。水野致顕は新田義興より上総国や武蔵国に所領を与えられ、主に関東で戦っていました。同時期に一族の水野良春が志段味郷の南を開墾し、新居村を開きました。
1412年、廃城となりました。
水野致国と水野致顕の争いの経過は不明ですが、最終的に水野致顕が残ったようです。そして水野致顕の子・水野致高が没すると、入尾城は廃城となりました。水野致高の子・水野頼致は、美濃守護の土岐持益に仕え、美濃の野尻邑に移りました。ただ、それは1430年の事で、それまでは春日井郡上志段味村に住んでいたようです。水野頼致の孫・致正は織田信長に仕え、その子・致元と正村は美濃の妻木氏に仕えました。、1590年の小田原征伐の後、水野正村は尾張の丹羽郡大口に戻って来たようです。そして、子孫は江戸時代は代々尾張藩士となりました。
所在地:愛知県瀬戸市鹿乗町(八幡神社)
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