2015/11/08
大留城/愛知県春日井市
大留城跡には子安神社があります。訪問日は2014年8月3日です。
▲道の突き当たり
城跡は子安神社となっていますが、そのすぐ脇に新しい道が造られています。まだ開通していない、という状態が既に数年続いているそうです。神社は写真右上端の黄色で囲んだ辺りにあります。

▲子安神社
道から脇にそれると神社に行けます。周辺はまだ以前の通りの住宅街です。右奥に見える白いコンクリートの壁状のものが道路です。
よそ様のサイトで後から気付いたのですが・・・黄色で囲んでるのが城址碑です。当日は気付かず、大失態です




▲子安神社の社殿
神社の社殿です。そこら辺にある普通の神社です。以前はこの社殿の裏や正面から見て右脇に堀跡があったそうですが・・・グルグルと見て回りましたが、見つかりませんでした。ちょうどその辺りまで道のコンクリートが迫っており、潰されてしまったようです。
◆歴史◆
1546年、村瀬作左衛門により築かれました。
村瀬作左衛門は足利義輝の家臣だと、現地の説明板には書かれているそうです。その説明板を現地で見つけられなかったのですが、ネットでも見つからず。足利義輝はこの時11歳で、近江国坂本の日吉神社で将軍となりました。これは将軍で父親の足利義晴が、管領の細川晴元と対立していたためだそうです。もしそうだとすると、村瀬さん、こんな所に居ていいんですか?という状況です。
1549年、犬山城の織田信清が攻めて来ました。
『前野文書』(郷土史かすがい43号に掲載)にその時の様子が生生しく書かれていました。犬山城主・織田信清は、織田信秀の直轄地であった篠木郷を狙って攻めて来たことがあります。その織田信清の使者として来たのが、大口城(=小口城)主の中島左衛門尉でした。中島左衛門尉は、小坂孫九郎(小坂吉俊か?)や佐々平左衛門、佐々蔵人を訪ねました。彼らが柏井衆や篠木衆を取りまとめていたためと思われます。この時左衛門尉は、彼らを味方にするため「村井作左衛門が寝返った」と言っています。驚いた小坂孫九郎が村井作左衛門に確認し、ハッタリだったと判明しますが・・・小坂孫九郎に詰問された村井作左衛門は「信秀殿の恩義忘れがたし」と言っています。事の真偽がわかると、小坂孫九郎は守山城に知らせて援軍300が駆けつけました。柏井・篠木衆の600と合わせて900の軍勢となり、伏兵を置いて犬山勢を破ったそうです。
1584年、廃城となりました。
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が、尾張を舞台に戦いました。(小牧・長久手の戦)柏井・篠木一帯は小坂雄吉が仕切っており、織田信雄方として参戦していました。この時、小坂雄吉は伊勢長島城守備のため留守にしていました。吉田城は前野直高、上条城は森川権右衛門、大留城は村瀬作右衛門が守っていました。彼らは楽田城の羽柴軍に備え、吉田城から大留城にかけて鹿垣をはり巡していました。
『武功夜話』によると、夜中に羽柴軍に急襲されたため、上条城と大留城が降伏しました。降伏の使者は三千貫文の所領を安堵すると言い、上条城の森川権右衛門は従いました。大留城の村瀬作右衛門も降伏したのですが、吉田城の前野直高に事の次第を伝えました。その結果、徳川家康が羽柴軍の三河奇襲を察知し、戦局に大きく影響しました。ただ、その村瀬作右衛門も三河奇襲隊に参加し、長久手で討死したそうです。そのため、主を失った大留城は廃城となりました。
所在地:愛知県春日井市大留町
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