2015/11/03
上末城/愛知県小牧市
上末城は道沿いに城址碑と説明板があります。訪問日は2014年8月2日です。
▲周辺の様子
来る前のリサーチでは城址碑と説明板があるだけ。パチっと撮ってサッサと次へ、と目論んでいました。写真は明るく写っていますが、この時既に17時半です。あと数箇所行きたいということで、なかなか見つけられずに焦りました。

▲城址碑と説明板
あれ?おかしいな?と、周辺をグルグル回って3周目でようやく見つけました。上の写真の左側にある藪の中に、埋もれるようにしてありました!この説明板、文字小さいのに結構離れた所にあります。たぶん肉眼では読めないでしょうね・・・土塁や空堀などもあるらしいのですが、おそらくはこの藪の中と思われます。私有地っぽくて入って行くのがためらわれ、そのまま立ち去りました。
◆歴史◆
まずは現地説明板の文章です。

落合勝正は尾張二宮大縣神社の祠官・重松秀村の三男と伝わります。大縣神社はここから北へ約3.5kmの所にあり、楽田の真東に当たります。距離はだいぶ近いので、岩倉城の織田伊勢守家に仕えていたのものと推測されます。
築城者の落合勝正は、文明年間(1469~86年の間)の人物とされます。
この年代は、応仁の乱(1467~77年)およびその後の織田家内紛の時期と重なります。守護代の織田伊勢守家は守護・斯波義廉、織田大和守家は前守護の斯波義敏を奉じました。戦いは織田大和守家方に有利に展開し、戦後は尾張を二分統治することになりました。織田伊勢守家は守護所のあった下津城を追われ、1479年に岩倉城を築いて移りました。上末城が築かれた時期と一致するため、戦功としてこの地を与えられたものと思われます。
上末城周辺のその後の出来事は以下の通りです。
1500年頃、織田伊勢守家が没落、織田大和守家から来た養子が家督を継ぐ。
1550年頃、犬山城主の織田信清が織田信秀と争いました。
1559年、織田信長が岩倉城の織田信賢を滅ぼしました。
1564年、織田信長が犬山城の織田信清を滅ぼしました。
「滅ぼした」とは書きましたが、いずれの城主も追放で済んでいます。落合勝正の子・安親が織田信長に仕えたのは、この頃ではないかと思われます。
1584年、小牧・長久手の戦の後、廃城となりました。
次に歴史に登場するのが小牧・長久手の戦です。ただし、上末城で戦いがあった訳ではありません。あったかもしれませんが・・・落合安親が子の落合庄九郎とともに、羽柴方が三河へ向かう道案内をしました。
羽柴秀吉は楽田城、徳川家康は小牧山に本陣を置きました。しかし、羽柴軍がいくら挑発しても徳川軍は動かず、睨み合いが続いていました。そこで、羽柴方の池田恒興と森長可が、徳川家康の本拠・三河への奇襲を献策しました。羽柴秀吉はあまり乗り気ではなかったとされますが、結果論かもしれません。この三河奇襲隊の道案内を落合父子がしたというのです。
結果は皆様ご存知の通りで、裏をかいた徳川軍が池田恒興・森長可を討ち取っています。この戦の後、上末城は廃城になったとされます。地図を見ていると、子孫の方々がそのまま城跡に住み続けたようですね☆
所在地:愛知県小牧市上末
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