2015/10/31
南外山城/愛知県小牧市
南外山城(みなみとやまじょう)は八幡神社に城址碑と説明板があります。訪問日は2014年8月3日です。
▲八幡神社の鳥居
妙楽寺の西隣にこんな感じの立派な鳥居があります。ここが城跡とされる南外山八幡宮の入口です。

▲八幡神社の参道
鳥居から奥を見ると、真っ直ぐな参道が伸びています。その先に見える建物が神社の社殿です。明るく写っていますが、夜明け直後なのでまだ電灯がついていますw

▲城址碑と説明板
この参道の途中に城址碑と説明板があります。説明板には発掘調査で見つかった堀の写真が載っています。城址碑は北外山城のヤツとおそろいな感じです。
◆歴史◆
堀尾孫助の居城でした。
正中年間(1324~25年)には既に八幡社があったそうで、それ以前ということになります。この頃は鎌倉時代末期なので、本格的なお城というよりも居館だったのでしょう。手がかりはこれしか無いのですが、これで終わっちゃぁ城キチの名が廃ります。ってことで、少しだけ悪あがきしました。
堀尾氏は尾張国丹羽郡御供所を領地とする土豪でした。現在の丹羽郡大口町御供所には、その名も「堀尾跡」があり、堀尾氏の屋敷跡とされます。御供所は堀尾吉晴の出身地であり、一族の堀尾金助が1590年まで居ました。ということで、南外山の方が時代が早いでしょうか?
さらに堀尾氏を遡ってみると・・・堀尾氏は天武天皇の孫・長屋王の子孫である高階(たかしな)氏の末裔です。高階氏は宮廷に仕え、中には天皇の母親になった娘もいました。足利尊氏の執事を務めた高師直も本姓は高階氏だそうです。堀尾孫助は高師直より前の時代の人物なので、この頃には既に家系が分かれていそうです。
高階氏が御供所を所領としたのは、高階邦経の頃からと思われます。高階邦経は修理大夫であり、娘が後伏見天皇の後宮となっています。後伏見天皇は1288年生まれで、1298~1301年に天皇として在位しています。・・・堀尾孫助のちょっと前くらいの年代ですね?
高階邦経の子孫が堀尾氏を称するのは孫・忠明のさらに孫・忠泰からです。ってことで、「堀尾」だからと堀尾吉晴のご先祖様かと思いましたが、違うようです

堀尾忠泰は斯波義重に仕えた人物です。この人物についての事跡はサッパリわかりませんが・・・斯波義重が尾張守護になったのは1400年頃の事です。斯波氏の本拠はそれまでは越前でしたが、守護代である朝倉氏に乗っ取られていました。斯波義重は将軍に働きかけ戦もしたのですが、結局越前を取り戻すことが出来ませんでした。そのせいもあってか、尾張を新たな本拠と定め、国内の土豪達を自らの家臣としています。
だた、それまでは数年で守護が別の氏族に交代していたせいか、従わない土豪も居ました。織田常松は斯波義重と同時に尾張に入り、3年後に守護代となりました。その織田氏が尾張各地を支配している事から、かなりの土豪が制圧されたものと思われます。ということで推測ですが・・・わかりますよね?
斯波義重に従って転戦した高階忠泰が、堀尾氏の所領と名跡を継いだのかもしれません。高階氏の系図を見ていると、堀尾氏に連なる高階忠明は高階氏の嫡流ではありません。じゃぁ、高階氏嫡流はどうなったんだ?って、知りませんけどwww
堀尾忠泰以前の堀尾氏は、平安時代から室町時代まで別氏族として既に尾張に居たようです。平安時代の『兵範記』には、尾張国丹羽郡堀尾荘という地名が記載されています。また、鎌倉時代の『九条家文書』では、1295年に堀尾三郎朝綱の名が登場します。堀尾荘がどこなのかは謎ですが、堀尾朝綱は丹羽郡小弓荘の地を巡って原高国と争っています。丹羽郡小弓荘は現在の犬山市に比定されていますので、堀尾荘は隣接する地域と思われます。そして、同時期にここに堀尾氏が城を構えていたということは、小牧一帯という事でしょうか?この系統の堀尾氏の祖先は藤原吉国と考えられています。
・・・妄想は膨らむばかりですw
ということで、結局のところ堀尾孫助についてのあれこれはわからずじまいです

1584年、小牧・長久手の戦で砦として再利用されました。
小牧山に本陣を構えた徳川家康が、南外山城跡を整備して砦としました。南外山八幡宮の社殿北側には、堀跡とされる窪みが残っており、この時のものと思われます。私自身は城址碑の所でUターンしてしまったので、堀跡は見ていないのですが

所在地:愛知県小牧市南外山(南外山八幡宮)
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