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小木城/愛知県小牧市

小木城(こきじょう)は古墳に築かれたお城でした。訪問日は2014年8月3日です。

小木城/①入口
▲入口

小木城跡とされる宇都宮神社への入口は、細い道の脇にありました。バイクだったので端に寄せましたが、車だと停められません。とは書きながら、地図見てると南側が大きく開けているので、本来はそっちから入るのかもあせる

小木城/②宇都宮神社
▲宇都宮神社

奥へ進むと立派な社殿がありました。宇都宮神社というのも、こんな感じの社殿も愛知では珍しいですよね?後で縁起を調べてみようと思います♪神社は興味ないですけどw

小木城/③図
▲図 拡大表示

宇都宮神社の説明板に描かれている図です。縄張図という感覚で撮ったのですが、実は古墳についての説明板です。宇都宮神社は古墳の地形を利用して築かれているのです・・・もとい、小木城は古墳の地形を利用して築かれていましたwww

小木城/④古墳
▲宇都宮神社古墳

古墳とは言っても、こうやって見る限りは小さな丘です。当時の人がこれがお墓だと言われてもピンと来なかったのではないでしょうけど。


◆歴史◆

平手氏の居城でした。

小木城でググってもサッパリでしたが・・・「小木殿」が平手氏というのがヒットして、そこからちょっとずつわかりました。そういう目で平手政秀をググってみると、志賀城、小木城主なんて書かれてます。織田信長が平手政秀の菩提を弔うため建立した政秀寺は、始めは小木にあったとか。それは、小木が平手政秀ゆかりの地だったからだそうです。しかし、政秀寺がどこにあったのか、その場所は現在もわかっていません。現在は名古屋市中区に移転され、平手政秀のお墓もその近くにあります。

意外というか盲点というかw

そこからさらに色々調べると、平手氏が代々「志賀城、小木城主」なんですね!ググって出てきたのは尾張群書系図部集で、最初の小木城主が平手義英です。この人物が平手氏の祖で、上野国から尾張へ移って来た得川有親の子です。得川氏は新田氏の一族で、平手義英の兄弟が松平氏の祖となっています。ただ、この辺りは仮冒の疑いがあり、一般的には信憑性が低いとされます。

とはいえ、応仁の乱の後頃から平手氏は小木城と志賀城の城主だったようです。志賀城は名古屋城(当時は那古野城)の近くにありました。この頃の那古野周辺は、駿河の今川氏が支配していました。今川氏は1393~98年まで今川仲秋、今川氏兼が尾張守護でした。その一族である那古野氏が尾張に土着していたのです。

平手氏の祖・平手義英は、はじめは平天城を居城としていました。平天城がどこにあったのかわかりませんでしたが、平手姓の由来になってそうですね!「愛知郡」と書かれているので、名古屋市東部から三河国境までのどこかでしょう。三河に近いという所が松平氏との関係を窺わせます。・・・仮冒の可能性が高いらしいですけどあせる

平手氏で「小木城主」と書かれているのは平手義英から久秀まで。平手久秀は平手政秀の嫡男です。

平手政秀が自害した原因には諸説ありますが・・・その1つに織田信長と平手久秀の馬を巡る逸話があります。それは、織田信長が平手久秀の名馬を欲しがったのですが、平手久秀が断りました。これにより織田信長がヘソを曲げてしまい、困り果てた平手政秀が自害したというものです。ただ『信長公記』では「平手五郎右衛門」と書かれており、平手久秀と特定されていません。「平手五郎右衛門」は長兄の平手長政や叔父・野口政利(平手政秀の弟)という説もあります。・・・まぁ、誰にしたって平手政秀とはとても近い人物であることに違いありませんけど。

平手政秀が自害したのは1553年2月25日です。この頃、平手家中ではおめでたいことがありました。それは、平手久秀の嫡男・平手汎秀が1月15日に生まれていたのです。織田信長との関係がこじれた中で、とても盛大に祝う状況じゃなかったのでしょうか?

平手久秀はそれでも織田信長に仕え続けており、各地の戦に出陣しています。戦績がわからないのですが、先陣切って突撃するタイプではなかったのでしょう。1574年の長島一向一揆で討死しています。

平手久秀の嫡男・汎秀は、その1年半前に三方ヶ原の戦で討死していました。そのため、平手氏の嫡流が絶えました。平手汎秀が小木城主と書かれていなかったのは、まだ家督を継ぐ前だったからなんですね。

ちなみに、佐久間信盛が織田信長に追放された理由の1つに、平手汎秀の討死があります。それは、目の前で武田軍に苦戦していた平手汎秀を助けず、退却してしまったからだそうです。織田信長と平手氏の関係は、この逸話から察するとそんなにギスギスしてなさそうです。

・・・脱線ばかりで話が前に進みませんねあせる

織田信雄分限帳に「小木殿」が登場するらしいのですが・・・ソースが1つしかないんですよね。分限帳見ればいいんでしょうけどあせる

織田信雄が尾張を治めたのは1582年にあった本能寺の変の後からです。この時すでに平手氏の嫡流は絶えていました。尾張群書系図部集でも平手久秀以降、小木城主と書かれた人物が見当たりません。ただ、1つ気になるのは「小木殿」という名前です。織田信雄分限帳で「~殿」と書かれるのは女性なのだそうです。そんな視点で尾張群書系図部集を見ていると、平手久秀には妹が居ました。ただ「女」とだけ書かれており、誰に嫁いだとも何とも書かれていません。当主の居なくなった小木城に残るとすれば、この人以外に見当たらないのです。生没年を含めて何にもわからないので、歴オタの推測でしかありませんけどあせる



所在地:愛知県小牧市小木(宇都宮神社)

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コメント

古墳が城

っていうのはあんまり珍しいもんではないんですね。
四国でも知りうるかぎり、2城あります。
平地に古墳はちょっとした砦、もしくは陣城にするにはもってこいなんでしょうね。

Re:古墳が城

コメントありがとうございます。
四国にもあるんですね!
いつか行った時に見たいです。
私が行った事がある所では、奈良や大坂にもありました。
(奈良の狐井城、大坂の丹南城など)
愛知ではあまり見かけませんでしたが、平地ばかりなので物見台には丁度いいですよね。

Re:Re:古墳が城

>なぽさん

貴重な記事、ありがとうございます。尾張にのこった平手氏の子孫を調べたかったのですが、九州在のため、なかなか愛知までゆけずにこまってました。

尾張群書~の平手の系図は、いつの年代までの系図が書かれているのでしょうか、また、傍系についての記載もあるのでしょうか?

よろしければ指南ください。

Re:Re:Re:古墳が城

>たらちねさん

私が書けるのは、現地の説明板に書いてあることと、ググって出てくる所までです。「尾張群書~」もググってちょっとだけ見えた所に書いてあった事です。どこまで知りたいのかわからないのと、それ持ってませんので、是非とも頑張ってググってみて下さいm(_ _)m
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なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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