2015/10/17
大道寺砦/愛知県扶桑町
大道寺砦は専修院あたりにあったとされます。訪問日は2014年8月2日です。
▲専修院
白漆喰の塀に門があって、中には立派な御殿。手前の駐車場を堀に置き換えて想像すると、ほら立派なお城に変身!・・・そろそろヤバイかな?

専修院ははじめ大道寺という名前で、1280年に開基されました。元々は柏森駅西側にあったそうですが、1577年に現在地へ移って来ました。

▲東門
ここを訪ねたのは砦跡ということもありましたが、この門があったからでもあります。専修院の東門は犬山城二の丸にあった矢来門を、明治時代に移築したものです。今も当時の天守が残る犬山城ですが、明治時代にはかなりの建築物が破壊されています。いつか元の場所に、、、ということは無いでしょうけどねw
◆歴史◆
犬山城を守る砦の1つでした
1564年、織田信長が犬山城の織田信清を攻めました。これは岩倉領を巡って織田信長と織田信清が対立したことによります。大道寺砦はこの戦の際に、織田信清方の砦として使用されました。それ以前からあったかどうかはわかりませんでした。
織田信清は織田信長の父・信秀の弟・信康の子、つまりは信長の従兄弟です。織田信秀がまだ生きていた頃から反抗しており、1549年に鎮圧されています。その後しばらくは従順でしたが、織田信秀が没すると再び離反しました。1558年に織田信長は岩倉城の織田信賢を攻めました。この戦に先立ち、織田信長は姉を織田信清に嫁がせて味方につけました。1559年に岩倉城が陥落し、織田伊勢守家が滅びました。この後の領地の分配で揉めたようです。
ただし、対立が表面化したのは1562年に織田信清が楽田城を攻めた時からです。1560年に今川義元が攻めて来た桶狭間の戦の時には、美濃の斎藤義龍に備えていたようです。
1564年に織田信長が攻めた際、大道寺砦を守っていたのは兼松全四郎と伝わります。兼松全四郎ってどんな人物なんだろう?とググってみましたが、サッパリわからず。出てくるのは大道寺砦のサイトばかりで、「この人が守っていた」としか書かれていません。・・・気になるw
キーワードは「又四郎という説もある」で、こちらでググると色々ヒットしました。同一人物だという保証は全くありませんけど

兼松又四郎は織田信長のもとでは馬廻として仕えました。本能寺の変の後は織田信雄に、織田信雄改易後は豊臣秀吉の黄母衣衆として仕えました。豊臣秀吉の没後は徳川家康に仕え、会津征伐にも従軍。その後、尾張に戻って尾張藩主・松平義直に仕え、1627年に没しています。
一方、織田信長方として攻めたのが遊佐教光です。遊佐教光は河内遊佐氏の一族と考えられ、楠木流の軍法に長けていたそうです。織田信長はまだ河内へ行った事もない時期なので、なぜなんだろうと思っていましたが・・・遊佐教光の妻が生駒八右衛門の妻の姉だったそうです。当時、理由はわかりませんが浪人中だったそうで、生駒屋敷で織田信長と出会ったようです。この頃の織田信長は、生駒屋敷に入り浸っていましたからねw織田信忠や信雄を生んだ吉乃は、生駒氏の出です。
遊佐教光は織田信長から大道寺砦を攻略するよう命じられ、兵300を与えられました。すると、兵を二手に分けて一隊は正面から、もう一隊は裏手から攻めました。まずは正面部隊が大道寺砦に攻め掛かり、白兵戦が展開されました。そこへ伏兵の鉄砲隊が奇襲を掛け、浮き足立った所を一気に攻略したそうです。
こんな感じで活躍した遊佐教光ですが、以後あんまり活躍してませんよね?小牧・長久手の戦では織田信雄に従い、後に豊臣秀吉に仕えたそうです。しかし、秀吉の怒りを買ったため剃髪し、月窓入道と号したそうです。・・・わかったのはこれくらいです

「大道寺」というと、後北条氏の重臣・大道寺政繁を思い浮かべました。北条早雲は元々は都で幕府に仕え、関東に来る途中で意気投合した数名が重臣となっています。その道すがら、尾張で大道寺氏の祖先と合流したのかな~なんて思いましたが・・・大道寺氏は京の宇治出身というので、関係ありませんね

所在地:愛知県丹羽郡扶桑町柏森(専修院)
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