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木ノ下城/愛知県犬山市

木ノ下城は犬山城の前身でした。訪問日は2014年8月2日です。

木之下城/①愛宕神社
▲愛宕神社

城跡とされる愛宕神社です。犬山市役所の真正面にあります。市役所も城跡のような気がプンプンしますが・・・遺構は何もありません。

木之下城/②城址碑
▲城址碑

左から見ると、こちらに城址碑がありますヽ(´∀`)ノ何も無くても、これだけで全国各地回れちゃいます。・・・だからキリが無くなっちゃうんですけどねあせる

木之下城/③説明板
▲説明板

奥の社殿の所に何やら文字の書かれて板があったので、ワラワラと近づいてみました。すると、これは神社の縁起ではなく、バッチリ木ノ下城について書かれていました。神社の縁起にお城の事が書かれているのはよく見るのですが、珍しいですねヽ(´∀`)ノ


◆歴史◆

織田家相関図

1469年、織田広近により築かれました。

織田広近は尾張守護代・織田郷広の子です。この頃は応仁の乱の真っ最中で、兄・織田敏広の命により築かれました。美濃の斎藤妙椿の侵攻に備えるのが目的でした。

1475年、織田寛近が城主となりました。

織田広近は隠居し、次男・織田寛近に家督を譲りました。嫡男・織田寛広は兄・織田敏広の養子となり織田伊勢守家を継いでいます。織田広近はもと居た小口城へ戻り、萬好軒で閑居しました。

1481年、織田敏広が没し、織田寛広が岩倉の織田伊勢守家を継ぎます。織田寛広は1494年に後ろ盾の斎藤妙純が討死してから勢力が衰えます。1504年以降は文書に登場しなくなりますが、1537年に織田広高が跡を継いでいます。しかし、織田広高の事績はほとんどわかっていません。この頃は織田大和守家が優勢で、次第に呑み込まれたものと思われます。

織田信康が城主となりました。

織田信康は織田信秀の弟です。文武両道の武将で、よく兄を助けたとされます。岩倉城の織田信安が幼かったため後見したとされますが・・・織田信安は1557年に嫡男により城を追い出されます。逆算するとそんなに幼くもないような・・・w

1537年、廃城となりました。

織田信康が犬山城を築いて移ったためです。犬山城と言えば、天守が現存する数少ないお城で国宝に指定されています。この天守の2階部分までは、この時に築かれたものと考えられています。織田信康はその後も兄・織田信秀に従い、1542年の今川義元との小豆坂の戦でも活躍しました。しかし、1544年、斎藤道三との戦いで稲葉山城を攻めた際(加納口の戦)に討死しました。家督は織田信康の嫡男・織田信清が継ぎましたが、織田信秀に対して反抗的でした。そのため、織田信長とも争うこととなり、1564年に追放されるのでした。


所在地:愛知県犬山市犬山(愛宕神社)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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