2015/10/11
宮後城/愛知県江南市
宮後城(みやうしろじょう)は道端に標柱があります。訪問日は2014年8月2日です。
▲城跡の周辺
県道の脇に空き地があり、そこに城址標柱が立っています。当初はこれだけ撮って次へ飛んで行く予定でしたが・・・

▲城址標柱
しげしげとこの標柱を眺めていたら、奥の方に何か見えました。視力は悪いクセに、こういったモノは遠くからでも目聡く反応しちゃいますw(ちょっと前まで空き地の真ん中に民家があったそうで、その頃だと見つけられていませんね)

▲説明板
そろりそろりと近づいて行くと、見事予感的中!城跡についての説明板でしたヽ(´∀`)ノしかも色々書かれている立派なヤツです


▲縄張図
この説明板に描かれている縄張図です。尾張では二重の堀で囲むのが流行っていたようですね!ただ、そのド真ん中を道が突っ切っています。遺構は無いでしょうね

◆歴史◆
安井氏の居城でした。
応永年間(1394~1428年の間)には既に居城にしていたようです。
蜂須賀小六が城主となりました。
1550年頃、蜂須賀小六の父・正利は、織田信秀と争い敗れました。蜂須賀正利の没後(戦死なのか病死なのか不明)、蜂須賀氏は領地を追われました。その領地は、蜂須賀正利の正室の実家・大橋氏のものになったとされています。
蜂須賀正利は安井重幸の娘を側室に迎えていました。名前は安井御前といい、正利の没後は居場所が無くなって実家の宮後城へ戻りました。この時、安井御前の子で蜂須賀正利の嫡男・小六を連れていました。蜂須賀小六は安井重幸の家督を継ぎ、宮後城主となっています。
「蜂須賀小六」というと、一般的にはこの蜂須賀正勝を指します。ただ「小六」は代々の名乗りだそうで、父の正利、子の家政も名乗っていました。通りがよいので、以後記す「蜂須賀小六」は正勝の事とします。
蜂須賀小六は川並衆として平時は木曽川の水運業、戦時は傭兵部隊を率いていました。特定の主君には仕えず、独立勢力を保っていました。
安井重幸は浅野氏に養子に出しており、嫡男・長吉が後の浅野長政となっています。浅野家といえば、豊臣秀吉とはかなり近い身内として有名です。浅野長勝は安井重幸の子に家督を継がせた他、杉原定利の2人の娘を養女としています。その次女・ねねが嫁いだのが木下藤吉郎です。
何かややこしい感じになってきたのでザックリ書くと、
安井重継 → 姉・安井御前の子・蜂須賀小六が安井家を継ぐ
浅野長勝 → 安井重継の子・安井長吉(後の浅野長政)が浅野家を継ぐ
→ 浅野長勝の妻の姉の子で養女・ねねが木下藤吉郎に嫁ぐ
血のつながりはありませんが、世間的には義理の兄弟という事になりますね。
安井重継の事績はわかりませんでしたが、これらの挙動から以下のように推測します。はじめ斎藤道三に従った後、旗色が悪くなって織田信長に従ったのかもしれません。養子を送った浅野長勝は、織田信秀・信長のもとで弓頭を務めていたからです。
蜂須賀小六は豊臣秀吉の側近として有名ですが、かなり近い親類でもありました。また、若い頃の豊臣秀吉は、蜂須賀小六の父・正利に仕えていた時期があったそうです。墨俣一夜城での蜂須賀小六の活躍は有名ですが、そこに至るまでに色々あったんですね!
1573年、蜂須賀小六が近江国長浜に領地を与えられました。
木下藤吉郎に従って各地を転戦し、武功を重ねました。そして浅井長政を滅ぼして藤吉郎が長浜城主になると、長浜城下に領地を与えられました。この時に一度廃城になったのか、だれか蜂須賀氏の一族が住み続けたのかはわかりません。蜂須賀小六はその後も羽柴秀吉の側近として活躍しました。1581年には播磨国龍野に5万3千石を与えられています。
1584年、小牧・長久手の戦の後に廃城となりました。
羽柴秀吉方の砦として大改修を受けました。戦で誰が守り、どのような役割を果たしたのかはわかりませんでした。織田信雄との和睦成立後、宮後城は破却されたそうです。まだ蜂須賀小六も存命中なので、本当かな?とは思いますが・・・城跡にある宮後八幡社は、ここで生まれて徳島藩主となった蜂須賀家政が建てたものです。
所在地:愛知県江南市宮後町上河原
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