2015/10/07
河田城/愛知県一宮市
河田城(こうだじょう)も城址碑だけがあります。訪問日は2014年8月2日です。
▲城址碑周辺
河田城は川沿いの道から「ちょっとだけ」脇に入り込んだ所にあります。どうせなら道沿いのもっと目立つ所に設置すればよかったのに、なんて思います。「たぶんこの辺だったよな~」なんてテキトーにウロウロしてたら見落とすかもしれません。・・・と、見落としてばかりの私が言うのも何ですが


▲城址碑
見つけた城址碑はとても立派なものでした。愛知縣・・・ではなさそうですね。いつも不思議に思うのですが、こういうのって誰が設置するのでしょう?場所によっては、2つも3つもある所がありますよねw
◆歴史◆
1584年、羽柴秀吉により築かれました。
小牧・長久手の戦で、羽柴秀吉により築かれました。羽柴秀吉はこの時に数多くの砦を築いたとされます。大坂から出陣して、小牧山城に陣取る徳川家康・織田信雄にジリジリと近づいたんですね。この時、すぐ西の大野城にも堀や土塁を築いています。羽柴軍はさらに南下し、最終的には楽田城に本陣を置きました。戦が終わった後、廃城となった下奈良城の物資が運び込まれました。
河田城の廃城時期がわかっていません。
この辺りでは1585年か1586年に木曽川が大氾濫を起こしています。どっちの年か白黒つけたサイトは見当たらず。とんでもない洪水の筈ですが、200年以上後の史料にしか書かれていないそうで。2年連続でもおかしくないんですけどねwこれにより木曽川の流路が大幅に変わり、尾張と美濃の国境が変更されています。河田城は、この氾濫で流されてもおかしくない位置にありました。
1600年、関ヶ原の戦の前哨戦がありました。
東軍の池田輝政がこの辺りから木曽川を渡り、岐阜城を攻めました。さらに、福島正則はもうちょっと南の加賀野井辺りで渡河しています。岐阜城の織田秀信(織田信長の嫡孫)は東軍の進撃に備えていましたが・・・東軍がどこから木曽川を渡るか予測がつかず、川沿いに兵力を分散せざるを得ませんでした。ということは、ここは木曽川を渡るポイントだったんですね!なぜここにお城が築かれたのか、今更わかりましたwただ、この頃にはもうお城は既に無かったようです。
1963年、河川改修工事のため、完全に消滅しました。
それまではお城の遺構がまだ残っていたそうです。・・・ということは、流されてなかったのでしょうか?どんな遺構だったのかはサッパリ?ですけど

所在地:愛知県一宮市浅井町
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コメント
無題
有名な城や有名武士の活躍した史跡に囲まれた名古屋に育ち 愛知県に住む環境... なのに
城好き旦那に付き合って 有名な他県の城には行きましたが、
近くの史跡は全然チェックしておらず...
コロナ自粛で 近くの古墳から始まり 城跡にも目覚め巡り始めました。
河田城跡 も 先日訪れ記事にしました。
城跡の歴史より 河田の渡しメインの記事になってしまいましたが…
2020/07/17 05:11 by shirobe URL 編集
Re:無題
愛知はしっかり遺構が残っている所が意外に少なく、訪ねる基準を下げた結果300か所以上となりました。有名な武将が多いので、調べるのは楽しかったですよ。
2020/07/17 19:54 by なぽ URL 編集