2015/10/06
大野城/愛知県一宮市
大野城の跡地は公園となっています。訪問日は2014年8月2日です。
▲公園
大野城の跡は、かなり広い公園となっています。事前に城址碑があるだけと知っていたので、サクっと撮るハズでしたが・・・あまりにも広くてなかなか見つけられませんでした。

▲公園の案内図 拡大表示
公園内なった案内図です。さすがにどこが城跡だったのか、まったく描かれていません。せめて城址碑がどこにあるのかぐらいは載せて欲しかったのですT_T

▲城址碑
広い広い公園をほぼ一周し、もうすぐバイクを停めた駐車場に戻る一歩手前で見つけました。・・・逆回りだったらすぐ見つかったんですけどね

◆歴史◆
大野治定により築かれました。
築城年は不明ですが、大野治定により築かれました。大野治定は京都の石清水八幡宮の祠官でしたが、弟との争いに敗れて美濃に来たそうです。それを織田信長が召し抱え、領地を与えたのだそうです。・・・ということは、織田信長が美濃を攻略した後という事でしょうか。
すぐ西の光明寺城は1569年のちょっと後に廃城になりました。光明寺城の城主・山田半兵衛はとても武勇に優れていたため、畿内へ移ったと思われます。そこで空いた土地が宛がわれたのではないかと推測します。
1584年、小牧・長久手の戦で砦として使用されました。
羽柴秀吉が小牧・長久手の戦の際に砦として使用しました。そのために堀や土塁などを築いて防御力を高める工事を行いました。大野城のあった木曽川南岸は、当初は羽柴方の最前線だったのです。しかし、城主・大野治久には無断で、堀秀政と岡田監物が勝手に築いたものでした。激怒した大野治久は、何と羽柴軍相手に発砲したのだそうですwww工事を遅らせたため、大野治久は羽柴家中から勘当されました。そのため、秀吉に仕えていた兄・大野定長とも音信が取れない状態になったそうです。ただ、築城した大野治定は1590年に大野で没したと伝わります。勘当されたのは大野治久だけで、戦後も大野氏の城だった可能性が高いと思います。
1600年、関ヶ原の戦でも砦として使用されました。
関ヶ原の戦で一柳直盛が砦として使用しました。一柳直盛は3.5km西にあった黒田城の城主で、西軍から東軍に寝返りました。関ヶ原の戦では、前哨戦として岐阜城での攻防がありました。一柳直盛は大野城を岐阜城攻めの拠点として利用しています。
この時、前年に徳川家中から追放されていた大野治長が活躍し、復帰が認められました。大野治定は福島正則の家老・尾関佐渡守の娘を娶っていました。この血縁を頼って福島正則隊で参戦したのではないかと思います。
戦後、徳川家康は豊臣秀頼に敵意が無いことを伝えましたが、その使者に選ばれています。大野治長は豊臣秀頼の乳母・大蔵卿局の子なので、かなり近い関係にあったのでした。大坂に向かった大野治長はそのまま江戸には戻らず、豊臣家の近臣となりました。
廃城の時期は不明です
大野治長は以後、ほぼ大阪城に詰めていました。そして1615年にあった大阪夏の陣で豊臣方の中心として戦い、自害しています。城跡には大正時代までは土塁などが残っていたそうですが、河川改修のため消滅。現在は大野極楽寺公園となっており、城址碑があるだけです。
所在地:愛知県一宮市浅井町
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