2015/10/05
光明寺城/愛知県一宮市
光明寺城は城址碑だけがあります。訪問日は2014年8月2日です。
▲城址碑周辺
光明寺城の跡地も住宅街となっており、遺構は見当たりません。城址碑だけ写すと迷うかもしれないので、周りの様子も撮ってみました。

▲城址碑
かなり立派で目立つので、近くまで来たら迷いませんよね?上の写真見て迷わずに済んだ、なんて方が居たら教えて下さいw
◆歴史◆
永禄年間(1558~69年の間)、神戸伯耆守により築かれました。
神戸伯耆守は丹羽長秀の家臣です。岩倉織田氏の支配地域だったので、岩倉城落城後の1559年頃と思われます。この頃は齋籐義龍の美濃へ侵攻している時期で、稲葉山城も見えたのだそうです。
1563年、松平元康が改名するきっかけとなりました。
桶狭間の戦の後、三河の松平元康は今川氏から独立しました。暫くは織田信長と国境で小競り合いをしていましたが、やがて和睦し同盟を結びました。清州城で同盟を結んだ後、織田信長は光明寺城へ松平元康を連れてきたのだそうです。
「光明寺の和尚は源義家の軍法に詳しいけど、私は平家の子孫だから教えてくれん」
・・・と言ったかどうかwこの和尚が軍法を教えたそうですが、条件は名前に「義」か「家」の字を付ける事でした。松平元康は今川義元から与えられた「元」を捨て、「家」の字を取ったのだそうです。その結果、松平家康と改名したのでした。(松平→徳川への改姓は1567年デス★)
1569年、山田半兵衛が城主となりましたが、間もなく廃城となりました。
神戸伯耆守がどんな武将だったのかよくわからないのですが・・・1569年の伊勢の大河原城攻めで討死しています。この時は城を四方から包囲して夜襲をかけたのですが、雨が降り出し鉄砲が使えませんでした。そのため攻城側が苦戦し、戦死者が多数出たのだそうです。伯耆守は単騎で敵陣に突撃したのですが、神戸市介、神戸賀介らが討死したからでしょうか?
拙速な攻撃で痛手を受けた織田信長は、兵糧攻めに作戦を変更。城内で餓死者が出始めると、織田信長の子を北畠家の跡継ぎにすることで和睦しました。これが後の織田信雄です。
神戸伯耆守が討死した後、山田半兵衛が城主となりました。山田半兵衛は織田信長の馬廻で、摂津池田城攻めや小谷の退却戦などで活躍しました。信長公記でも「隠れなき武篇者」と書かれている猛者です。織田信長はその後各地へ侵攻したので、ひとつ所には落ち着けなかったという事でしょうか。
所在地:愛知県一宮市光明寺町
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