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光明寺城/愛知県一宮市

光明寺城は城址碑だけがあります。訪問日は2014年8月2日です。

光明寺城/①城址碑周辺
▲城址碑周辺

光明寺城の跡地も住宅街となっており、遺構は見当たりません。城址碑だけ写すと迷うかもしれないので、周りの様子も撮ってみました。

光明寺城/②城址碑
▲城址碑

かなり立派で目立つので、近くまで来たら迷いませんよね?上の写真見て迷わずに済んだ、なんて方が居たら教えて下さいw


◆歴史◆

永禄年間(1558~69年の間)、神戸伯耆守により築かれました。

神戸伯耆守は丹羽長秀の家臣です。岩倉織田氏の支配地域だったので、岩倉城落城後の1559年頃と思われます。この頃は齋籐義龍の美濃へ侵攻している時期で、稲葉山城も見えたのだそうです。

1563年、松平元康が改名するきっかけとなりました。

桶狭間の戦の後、三河の松平元康は今川氏から独立しました。暫くは織田信長と国境で小競り合いをしていましたが、やがて和睦し同盟を結びました。清州城で同盟を結んだ後、織田信長は光明寺城へ松平元康を連れてきたのだそうです。
「光明寺の和尚は源義家の軍法に詳しいけど、私は平家の子孫だから教えてくれん」
・・・と言ったかどうかwこの和尚が軍法を教えたそうですが、条件は名前に「義」か「家」の字を付ける事でした。松平元康は今川義元から与えられた「元」を捨て、「家」の字を取ったのだそうです。その結果、松平家康と改名したのでした。(松平→徳川への改姓は1567年デス★)

1569年、山田半兵衛が城主となりましたが、間もなく廃城となりました。

神戸伯耆守がどんな武将だったのかよくわからないのですが・・・1569年の伊勢の大河原城攻めで討死しています。この時は城を四方から包囲して夜襲をかけたのですが、雨が降り出し鉄砲が使えませんでした。そのため攻城側が苦戦し、戦死者が多数出たのだそうです。伯耆守は単騎で敵陣に突撃したのですが、神戸市介、神戸賀介らが討死したからでしょうか?

拙速な攻撃で痛手を受けた織田信長は、兵糧攻めに作戦を変更。城内で餓死者が出始めると、織田信長の子を北畠家の跡継ぎにすることで和睦しました。これが後の織田信雄です。

神戸伯耆守が討死した後、山田半兵衛が城主となりました。山田半兵衛は織田信長の馬廻で、摂津池田城攻めや小谷の退却戦などで活躍しました。信長公記でも「隠れなき武篇者」と書かれている猛者です。織田信長はその後各地へ侵攻したので、ひとつ所には落ち着けなかったという事でしょうか。


所在地:愛知県一宮市光明寺町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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