2015/10/04
黒田城/愛知県一宮市
黒田城の跡には小学校があり、その一角に城址碑があります。訪問日は2014年8月2日です。
▲道端にあります
黒田城もその跡地は小学校になっています。その北東の一角に記念碑的なスペースが設けられています。・・・とは言っても取って付けたような空間で、駐車場はありません。バイクだったので道端に寄せ、「ちょっとだけ」と撮ってきました。

▲正面から
道の反対側から見た所です。造りは立派なのですが、ゆっくり見ていられません


▲城址碑
それでも一応中に進むと、立派な奴がありましたヽ(´∀`)ノ愛知縣が建てたヤツですが、よそで見たモノより気合い入ってます


▲山内一豊の銅像
さらに銅像まで



▲黒田小学校
例の如くというか、すっかり小学校になっています。お城の面影は微塵もありません。

▲すぐ脇を流れる川
・・・無いかと思いましたが、すぐ脇を川が流れていました!これ絶対堀にしてたと思います、思いたいです。

▲澤井雄重没後400年記念碑
さて、山内一豊ゆかりのお城で有名なのですが、城内にはもう1つ超立派な石碑があります。「町制施行百年」とは銘打ってあるものの、城主のご子孫による懸賞碑です。さぞかしご立派な方なのでしょう。

▲澤井公屋敷跡の石碑
はよせな、という事で早々に立ち去り、次の城跡(光明寺城)へ向かいました。その道すがら、道端にある石碑が目に留まりました。「澤井公屋敷跡」・・・何となく見覚えがあるような?城跡じゃないけど、何か引っ掛かったので一応撮っていました。バイクだとこういう融通が利くのが嬉しい所です。

▲澤井公屋敷跡のバス停
その脇には同じ名前の鉄板が・・・w普通はこっちが先に目に入りそうなものですが、ちょっと目の方までヤラレてるっぽいです。
◆歴史◆
明応年間(1492~1500年の間)に五藤光正が居館を築きました。
五藤光正は相模国多縄から尾張に移って来ました。「多縄ってどこだろう?」とググってみましたが、一向にヒットせず。代わりと言っては何ですが、「玉縄城」がヒットしました。ここの歴史を調べてみると、1512年に北条早雲が三浦義同を攻めるため築いたとあります。ということは、ここは有力な武士が居なかったことになります。
それよりちょっとだけ時代をさかのぼると、三浦氏の家督争いがありました。・・・すっかり「多縄=玉縄」で話進めちゃってますw
相模の大族・三浦時高には実子が無かったため、主君・扇谷上杉氏の次男を養子に迎えました。しかし、三浦時高は実の子が生まれたため、養子に家督を譲るのをやめようとしました。この争いがあったのが1494年で、戦いは養子側が勝利しました。この養子が三浦高救で、その子が北条早雲に滅ぼされた三浦義同です。
・・・すっかり横道に逸れました。関係あるかどうかもわからないのにw五藤光正が去った頃の相模は、こんな感じで荒れていました。
大永年間(1521~27年の間)に山内盛豊が尾張に移って来ました。
山内盛豊は父・山内久豊とともに丹波から尾張へ移って来ました。この頃の丹波は・・・長くなりそうですね♪波多野稙通が勢力を拡大し、丹波を統一しつつある時期でした。なぜ尾張に向かったのかは謎ですが、父・久豊が間もなく亡くなっています。推測ですが、丹波で負った戦傷が悪化して、療養のために留まったのかもしれません。何の根拠もありませんけど

この時、美濃を流れる長良川の渡船で五藤淨基と出会ったのだそうです。山内氏が黒田に流れ着いたのは、この出会いによるものだったのですね!以後、五藤氏は最古参の家臣として代々山内家に仕えました。
1532年頃、山内盛豊が黒田城代となりました。
山内盛豊は岩倉城の織田信安に仕え、早くも家老となりました。尾張に来てからまだ10年経つか経たないかです。よっぽど優秀だったんですね!
1557年、主家の岩倉城でクーデターが起きました。
織田信安が次男に家督を譲ろうとしたため、嫡男・織田信賢が父と弟を追放しました。この内紛が後々命取りとなります。
1557年、黒田城が落城しました。
長年にわたって岩倉織田家と対立していた織田信長が攻めて来ました。この時、織田信長はかつては岩倉織田氏を後見していた犬山城の織田信清を味方にしました。黒田城の山内盛豊は岩倉城の織田信賢に従っていました。そのため黒田城が織田信長の夜襲に遭い落城。この時に山内盛豊の嫡男・十郎(一豊の兄)が討死しました。一説には山内盛豊も討たれたとされますが、岩倉城へ逃れた説の方が有力となっています。
1558年、織田信賢は浮野の戦で織田信長に大敗し、岩倉城に籠城しました。
1559年、岩倉城が落城しました。
この時の戦いで山内盛豊が戦死しました。討死だったのか、自害したのかは定かではありません。これにより山内氏は居所を失い、しばらくの間各地を放浪することとなりました。この戦いの後、黒田城は織田広良が城主となりました。
1562年、軽海の戦いで織田広良が討死しました。
織田広良は犬山城主・織田信清の弟です。岩倉城攻め以前は独立勢力でしたが、以後は兄とともに織田信長に仕えました。織田信長が美濃に侵攻した際、織田広良は最前線の十九条城を守っていました。・・・以前書いた十九条城の方では、別名の織田信益で書いてましたwさすがに目と鼻の先に敵の拠点があったら黙っていませんよね。齋籐龍興は大雨の日を狙って、織田方の拠点潰しに掛かりました。これは、木曽川や長良川が増水したら、織田軍の援軍が渡って来れないためです。
この動きを察知した織田信長も援軍を出しましたが、織田広良は討ち取られてしまいました。これと関係あるかどうかは不明ですが、この直後に兄の織田信清が謀反を起こしています。
織田信清の家老・和田新助が城主となりました。
織田広良に跡継ぎが無かったため、兄・織田信清の家老が城主となりました。織田信清はこの頃から織田信長と敵対し、楽田城を奪いました。これに対し、織田信長は本拠地を清州城から小牧山城へ移しました。これは美濃攻略のためというのが一般的ですが、犬山城の目と鼻の先でもあります。黒田城と犬山城は、小牧山城が築かれた事により分断されました。また、犬山城の支城が次々と陥落していた事もあり、和田新助は織田信長に降伏しました。同じく織田信清の家老・中島豊後守も降伏したため、織田信清は守り切れなくなりました。犬山城が陥落すると織田信清は甲斐へ移り、犬山鉄斎と名乗ったそうです。
1574年、和田新助が討死しました。
織田信長の直臣となった和田新助は、織田軍の主要な戦にはほぼ参戦していたようです。しかし、伊勢長島の一向一揆討伐の際に討死しました。この時は破れかぶれになった一揆勢により、多くの武将が討死しています。和田新助が討たれたため、弟の和田定教が城主となりました。
和田定教は、時期・理由ともわかりませんが、織田家から追放されています。1578年の三木城包囲戦には参戦しており、次の城主が1582年に入っているので、その間です。・・・となると、織田信長が多くの重臣を追放した1580年が濃厚ですね。この時追放された林秀貞は、1556年の稲生の戦で敵対した事が理由として挙がっていました。和田新助も織田信清の家老として、織田信長とは戦ったことがあります。たぶんこれが原因でしょうか?
1582年、澤井雄重が城主となりました。
本能寺の変の後、織田信雄の重臣・澤井雄重が城主となりました。澤井雄重は織田信雄が北畠家の養子に入った時、織田信雄の傅役を務めた人物です。黒田城主になった時の禄高は14,500貫であり、かなりの大身ですね!これだけの大身になるのには、やはりそれなりに理由がありそうです。小牧・長久手の戦で、澤井雄重は織田信雄方として黒田城を守っていました。羽柴秀吉の調略にも全く動じず、攻められても城を守り抜きました。この忠義に感じ入った徳川家康が、澤井雄重に感状と太刀を与えています。
1590年、一柳直盛が城主となりました。
一柳直盛は豊臣秀吉お気に入りの一柳直末の弟です。一柳直末が小田原征伐の際に討死したため、家督を継ぎました。この時、尾張の織田信雄が駿河への移封を拒否したため改易となりました。これにより空いた尾張が空白地となり、黒田城3万石を与えられました。兄の功績により城を得た一柳直盛ですが、以後は自力で出世しました。最終的には伊予で6万3000石を領する大名になっています。
1600年、富田忠繁が城主となりました。
一柳直盛が関ヶ原の戦での功により、伊勢国神戸5万石へ移りました。代わって清州城主となった徳川家康の4男・松平忠吉の家臣・富田忠繁が城主となりました。しかし、時期は不明ですが間もなく廃城となりました。
・・・長いですね

所在地:愛知県一宮市木曽川町
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