2015/10/01
奥城/愛知県一宮市
奥城跡は保育園となっています。訪問日は2014年8月2日です。
▲城跡にある保育園
奥城の城址碑は保育園にある!というので、周りをウロウロしてきました。で、見つけられず・・・あんまり保育園の周りを徘徊するのも何なので、ついに諦めて撤退しました。街中での城跡巡りの難しい一面です。
帰ってから調べ直しても、やっぱりこの保育園で合ってるらしい

ストリートビューのリンク
またもや自分で写真撮れてないのが悔しいのですが・・・園内に停まってる車の右上辺りに、城址碑の足元が見えます。辛うじて「址」の字だけ見えますが、わかりますか???
◆歴史◆
梶川高秀により築かれました。
梶川氏は水野氏の家臣だったようです。伝承では知多郡梶村が名の由来ですが、その村が史料上見つからないそうです。梶川高秀は犬山城近くの楽田に居ました。水野氏というと、三河との境に近い知多半島で栄えた士族として有名です。しかし、犬山の南東にあった春日井郡山田庄水野邑が水野氏発祥の地です。この辺りで水野氏の名が登場するのは、不自然な事ではないです。
時期は不明ですが、梶川高秀は楽田から奥へ移って城を築きました。楽田では織田宗家と織田弾正忠家が争い、奥は尾張と美濃の国境近くです。この辺りの出来事を時系列に並べると
1556年、長良川合戦で齋籐道三が齋籐義龍に討たれる→織田信長との同盟解消
1558年、浮野の戦いで織田信長が齋籐義龍に味方していた織田伊勢守家を滅ぼす
1560年、桶狭間の戦い→梶川高秀が中嶋砦を守る
1560年にあった桶狭間の戦で、梶川高秀はすでに織田信長に仕えていました。しかも、桶狭間に一番近い砦を守っていました。ということは、1558年の浮野の戦辺りで信長方に寝返ったのでしょうか?桶狭間の時に最前線の中嶋砦、美濃・齋籐義龍との闘いでも最前線です。この頃はまだ仕えてから日が浅かった可能性がありますね。
1568年、梶川高盛が家督を継ぎました。
摂津・池田城攻めの際に梶川高秀が討死しました。この戦いは織田信長の摂津侵攻で、三好三人衆と組んでいた池田勝正を攻めました。池田勝正は降伏しましたが、織田信長に認められて加増され、摂津三守護の1人となっています。
1570年、梶川高盛が楽田城主になりました。
楽田城主の坂井政尚が近江で討死したため、梶川高盛が楽田城主となりました。坂井政尚は齋籐道三の旧臣で、織田信長が美濃を攻略した頃に家臣になったとみられます。1568年に織田信長が岩成友通を攻めた際は、柴田勝家や森可成と並ぶ大将として登場します。この戦いの後、佐久間信盛らとともに京・畿内を支配する5人の奉行の1人となりました。梶川高盛が討死したのは、比叡山を包囲していた時の戦いでした。猪飼昇貞が降伏したため堅田へ向かっていた途中、朝倉軍の前波景当の軍勢に討たれました。坂田政尚は『信長公記』では「一人当千の働き、高名比類なきところ」とされています。
1584年、小牧・長久手の戦いで落城しました。
この時は織田信雄の拠点として、織田信長の庶弟である織田信照が城を守りました。織田信照は織田信長の父・信秀が、熱田の商家の娘を側室にして産ませた子です。羽柴秀吉に攻められて捕虜となりましたが、織田信長の弟ということで助命されました。この戦の後、織田信雄から沓掛城2000貫を与えられました。
廃城時期は不明です。
この後、奥城がどうなったのかわからず・・・1586年に木曽川が大氾濫を起こしているので、この頃に廃城になったと思います。この時の大氾濫で木曽川が流路が変わり、尾張と美濃の国境が変わっています。
所在地:愛知県一宮市奥町川並東
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