2015/09/27
中島城/愛知県一宮市
中島城(なかしま)も遺構は失われ、城址碑だけが残っています。訪問日は2014年8月2日です。
▲中島小学校
中島城は中島小学校の南側にありました。
城跡はこの小学校を目印に攻略します。

▲小学校の南側を流れる用水路
小学校のすぐ南側には、このように用水路が流れています。
堀跡でしょうか?ヽ(´∀`)ノ
そうですよね?
たぶんw

▲城跡のバス停
ここまでは順調だったのですが、肝心の城址碑が見つからず。鬱蒼としたジャングルに囲まれたお寺は見つけました。城域はこのお寺の西側なのだそうですが・・・グルグルうろうろしても 発見できず。
そんな時に見つけたのがこのバス停です。「北方城趾」と書いてあります。これ見て勇気づけられて再度2周目のウロウロでも 発見出来ず。当日はこれで心がポキッ♪と鳴ったので、次の城跡へと飛んで行きました。
でも、やっぱり行ったのに見つけられないのは超悔しい!ということで、あらためでGoogle Mapのストリートビューで探して見つけました。・・・すぐ近くまで行ったのにw自分で撮った写真でないのが悔しいのですが、せっかくなのでリンクを貼っておきます。
城址碑の写真(Google Mapのストビュー)下の地図の印の所にあります
場所がわかってから上の写真を見ると、ちょっとだけ写ってました

◆歴史◆
鎌倉時代から戦国時代にかけて、中島氏が居城としました。
中島氏は嵯峨天皇の第十二子河原院(左大臣源融)の末裔とされます。承久の乱後の1221年に尾張国中島郡を与えられ、地名から中島姓を名乗るようになりました。室町時代中期以降は斯波氏や織田氏に圧迫され、最終的には豊臣秀吉の家臣となりました。この辺りの経緯がサッパリわからず・・・
【2015/10/18追記】----------------------------------------------------------
よそのお城を調べていて少しだけわかりました!年代は不明ですが、犬山城主・織田信清の家老として小口城主になっていました。これは1562年、織田信長が小口城を攻めていることからわかりました。この時の城主は中島左衛門で、子の中島豊後守も一緒に小口城を守っていました。翌年、織田信長が小牧山城へ本拠を移して犬山城を攻めた時に降伏しています。以後、中島豊後守は黒田城主・和田新助とともに「犬山衆」として活躍。1574年の伊勢長島一揆討伐まで記録に登場します。
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当地出身であろうと思われる中島氏種は、大坂七手組頭として仕えました。大坂夏の陣では2000人の軍勢を率いていましたが、落城を待たずに自害して果てました。中島氏種の子は帰農し、河内国内の豪農となりました。子孫は代々中島九右衛門と名乗ったそうです。
所在地:愛知県一宮市萩原町中島
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