2015/09/27
吉藤城/愛知県一宮市
吉藤城の跡は畑となっています。訪問日は2014年8月2日です。
▲遠くから
周りは田んぼですが、ここだけは畑になっています。地形的に沼沢地に浮かぶ微高地だった、ということですね。

▲城址碑と説明板
この小さな畑の一角に、立派な城址碑と説明板があります。尾張の平城では、歴史を伝えるせめてものよすがです。

▲キケンな香り
この畑、かなりイカしてます。モグラ相手にトラバサミとは・・・いや、モグラ穴に足取られますよ、トラバサミもありますよ、って事でしょうか?色々解釈出来る余地を残してあるのが味わい深いですw
◆歴史◆
遠藤氏の居城でした。
築城年代や築城者は不明です。戦国時代までは遠藤氏が居城としていたようです。東に約5km離れた所にある妙興寺の1443年に書かれた請文に、遠藤三郎宗次が登場します。この請書には、妙興寺領の代官職だったと記載されています。妙興寺は東に約2.5kmに城を構えていた中島氏により、1348年に再興された大寺院です。このお寺に関わっていたということは、遠藤氏は中島氏の被官だったということでしょうか。
中島氏は鎌倉時代から中島郡を支配していた土豪です。次第に斯波氏や織田氏に領地を奪われたということは、独立勢力だったのでしょう。戦国時代には羽柴秀吉の家臣となっていました。
1560~70年代に遠藤三郎右衛門が美濃に移ったようです。
寛文年間(1661~72年までの間)に書かれた「寛文村々覚書」では
・城跡は一反二畝十二歩(372坪=1230平米)あった
・今は田・畑・になり、100年前位に濃州板倉へ移った
と書かれていると、現地の説明板に書かれています。
この頃の情勢と言えば、織田信長が美濃を制圧して近江へ進出し始めた頃です。「濃州板倉」がどの辺りを指すのかはわかりませんでした。
1584年、小牧・長久手の戦でも砦として機能していたようです。
小牧・長久手の戦は、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が尾張を舞台に行った戦いです。この時、織田信雄が織田長益、滝川雄利、飯田半兵衛らを置いて守備を固めたそうです。地理的には木曽川が近く、美濃からの攻撃を受ける最前線にあったのでしょう。その頃までは軍事的な拠点として使われていたということなんだと思います。
所在地:愛知県一宮市明知
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