2015/09/27
一宮城/愛知県一宮市
一宮城は城址碑だけがあります。訪問日は2014年8月2日です。
▲城址碑
一宮城は一宮市の中心部にありました。駅の東側約350mの所にある銀行の前にこの城址碑があります。街のド真ん中で、遺構はありません。
◆歴史◆
関成重が美濃から尾張へ移って来ました。
関氏はもとは美濃国関で土岐頼芸、齋籐道三に仕えていました。土岐頼芸は織田信秀の後ろ盾により齋籐道三に抵抗していましたが・・・1548年にその織田信秀が齋籐道三と和睦してしまい、完全に孤立しました。そして1552年には美濃から追放され、諸国を放浪することとなりました。
この頃の美濃の状況は複雑で、齋籐道三は嫡男・義龍と骨肉の争いを演じるようになります。両者の関係が険悪になったのはいつからなのかわかりませんが・・・1554年に齋籐道三が隠居し、齋籐義龍に家督を譲っています。しかし、道三は義龍の廃嫡を目論んでおり、一触即発の状態でした。この時、関を支配していたのが、長井道利です。長井道利は齋籐義龍とともに、齋籐道三と敵対していました。そして、関成重の父・関綱長は1556年に戦死したと伝わります。これは齋籐義龍が齋籐道三を討った長良川合戦があった年です。関氏が美濃から尾張に移ったのはこの頃ではないかと推測します。
1570年、関成重が一宮に所領を与えられました。
近江の浅井長政攻めの際の功により、一宮に所領を与えられました。関氏は一宮にある真清田(ますみだ)神社の神職の家系でもあったそうです。関成重が一宮城を築いたのはこの頃と思われます。
1572年、関成政が、森長可の姉を娶りました。
関成重の嫡男・成政が織田信長の重臣・森長可の姉を娶りました。「重臣」とは言っても、森長可はこの時まだ15歳でしたけどwでも、森長可はこの頃既に、羽柴秀吉や丹羽長秀らと連名で発給した文書があります。森長可の父・森可成も美濃から尾張へ移って織田信長に仕えていました。美濃時代から縁があったのかもしれませんね。
1574年、関成政が蘭奢待の切片を真清田神社に奉納しました。
織田信長が奈良・正倉院に保管されていた香木・蘭奢待を切り取る事件がありました。事件とは言っても、朝廷から正式に許可を得て切り取ったのですが。これは織田信長の勢いを天下に知らしめる出来事でした。織田信長は切り取った蘭奢待を近臣にも分け与えていました。その一人が村井貞勝であり、関成政は村井貞勝からさらに分与されました。関成政は自分の屋敷に置いておくのは畏れ多いとして、真清田神社に奉納したのでした。
1584年、不破広綱が城主となりました。
本能寺の変で主・織田信忠が討たれた後、関成政は織田信雄に仕えていました。しかし、織田信雄は次第に羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の戦となりました。この時に羽柴秀吉方となっていた森長可に誘われ、関成政は寝返りました。森長可は池田恒興と共に徳川家康の本拠・三河を急襲し、この作戦に関成政も参加しました。奇襲は徳川家康に見破られて森長可、池田恒興が討死。森長可討死の報告を受けた関成政は、徳川軍に突撃して討死しました。当主を失った関一族は、美濃・金山城の森長可の弟・森忠政を頼ることとなりました。以後、森氏で跡継ぎが絶えると関氏から、関氏で跡継ぎが絶えると森氏の養子が継ぎました。
戦後、一宮城は両軍の間で揺れ動いて織田信雄方についた不破広綱が城主となりました。不破広綱は小牧・長久手の戦で、美濃の竹ヶ鼻城を守っていました。織田信雄方についたため羽柴軍に攻められましたが・・・羽柴秀吉も不破広綱とは昵懇の間柄であり、水攻めにして織田信雄を釣り出す作戦に出ました。しかし、織田信雄も徳川家康も援軍を出さなかったため、秀吉の目論見は失敗。不破広綱を織田信雄の元へ退去させたのでした。竹ヶ鼻城は羽柴方に接収されたため、空いた一宮城が不破広綱に与えられました。
1590年、廃城となりました。
この年に不破広綱が去っている事から、織田信雄の改易が原因と思われます。不破広綱のその後の行方が気になるのですが・・・わかりません

所在地:愛知県一宮市本町3丁目
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