2015/09/26
沖村城/愛知県北名古屋市
沖村城の城址碑はお寺の前にあります。訪問日は2014年8月3日です。

▲松林寺
ここは城址碑の前にあるお寺です。城跡はもうちょっとだけ北だったそうです。どっかと同じで、道が出来た時に石碑が移されました。ただ、地図見てると周りが田んぼでここも城域だったように感じます。「沖村」という地名も、だだっ広い水の中に浮かぶ島っぽい感じがしますから。

▲林通勝邸碑
上の写真の門の前にある碑です。城址碑城址碑と書きましたが、正確には「林通勝邸趾」碑です。お城と館の境界って線引き出来ませんよね・・・織田信長の筆頭家老の館なので、さぞかし立派だったことでしょう。遺構はありません。
◆歴史◆
林氏の館がありました。
尾張の林氏は、美濃の林氏と同じ伊予の河野氏をルーツとする説が有力です。ただし、系図が混乱しているようです。土岐氏が伊予に所領を持っていた時期があり、何かと河野氏とつながりがあるようです。そして美濃に移って来た河野一族が、土地の名から林姓を名乗ったそうです。
美濃から尾張に移って来たのがいつ頃なのか、明確な答えは見つかりませんでした。ただ、『信長公記』では、林秀貞が「三代の恩」と言う場面があります。林秀貞が三代目なのか、仕えた織田氏が三代目なのか判然としませんが・・・これは1556年の稲生の戦の直前、織田信長が織田信時と2人だけで那古野城へ赴いた時の事です。
両者を三代さかのぼると、織田信定と林通村の時代になります。織田信定が織田信秀に家督を譲ったのが1527年。林通村はよくわかりませんが、林秀貞の年齢から推測すると1500年頃の人物と思われます。
この頃の尾張は、美濃の内乱と遠江を巡る今川氏の侵攻に悩まされていた時期です。美濃では土岐氏が支配力を失いつつあり、守護代の齋籐氏が台頭していました。その齋籐氏内で主導権争いがあり、船田合戦が勃発しました。下四郡の守護代・織田寛定が巻き込まれ、美濃へ出陣して討死しています。
…長くなりそう

と言うことで、美濃と尾張で激しく人の行き来がありそうな時期でした。はしょり過ぎ感がハンパないですw
1538年、林秀貞は織田信長付の筆頭家老となりました。
織田信秀は今川氏豊から那古野城を奪い、勝幡城から本拠を移しました。その時期は諸説ありますが、1532~38年の間とされます。さらに古渡城を築いて本拠を移すと、嫡男・吉法師(後の織田信長)を那古野城主としました。この4歳の城主を補佐するために置かれた筆頭家老が林秀貞、次席家老が平手政秀です。
1556年、謀反を起こしました。
諸説ありますが、1552年に織田信秀が没しました。そのため嫡男である織田信長が家督を継いだのですが・・・織田信長は「大うつけ」と呼ばれており、弟の織田信勝を推す家臣が少なからず居ました。林秀貞もその一人でした。
織田信勝は最近まで「織田信行」と呼ばれる事の多かった、織田信長の同母弟です。昔やった大河ドラマでは「林通勝」と「織田信行」でしたからね。宇津井健さんが演じた林通勝の、あの舌っ足らずな感じのしゃべり方が思い出されますw
さて、1556年には織田信勝が兄・信長の直轄地を奪おうと挙兵しました。
これが稲生の戦いです。この時、織田信勝側に信長の筆頭家老である林秀貞と、猛将・柴田勝家が味方しました。兵力も1500対800で、織田信勝側が有利でした。しかし、結果は織田信長が勝ちました。この時の織田信長は先陣に立って大活躍しています。柴田勝家の軍勢との戦いでは大喝して怯ませており、林美作守は信長が自ら討ち取りました。
戦いの結果を受け、織田信勝は末森城、林秀貞は那古野城に籠城しました。結局は心を痛めた織田信長の母・土田御前のとりなしにより和睦しています。織田信勝はこの翌年に織田信長により暗殺されました。しかし、林秀貞は織田信長の筆頭家老の地位を維持し続けました。
1580年、林秀貞が織田信長により追放されました。
晴天の霹靂というのがふさわしい出来事でした。本願寺との石山合戦が終結した直後に、織田信長は多くの宿老を追放しました。その中に林秀貞も含まれていました。理由は『信長公記』に「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」とあります。つまり、24年前の稲生合戦で弟・織田信勝を奉じて謀反を起こしたからというのです。
林秀貞の追放後の足取りは定かではありませんが、京から安芸へと移り住んだようです。そして、追放から2か月後に亡くなったとされています。既にかなりの高齢であり、追放されたショックが影響したと考えられています。
所在地:愛知県北名古屋市沖村西ノ郷(松林寺)
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