2015/09/25
小田井城/愛知県清須市
小田井城は公園に城址碑があります。訪問日は2014年8月3日です。

▲公園
小田井城の城址碑がこの公園にあります。見た感じは、町にあるちょっと広めの普通の公園です。城址碑は南西にあったそうですが、道を整備したためこちらに移したのだとか。元々城址碑があった所は、古城交差点の辺りだったそうです。

▲バス停
公園の前にあるバス停です。「城跡公園」と書いて「じょうしこうえん」とふりがなが振られています。漢字が正しいのか、ふりがなが正しいのか気になりますが…意味は通じてる(と思う)ので、どっちでもいいですよね?w

▲城址碑①
あまり広くない公園ですが、城址碑どこかいな?とちょっと探しました。昔から探すのは苦手なもので、視界に入っていても気付かない性分です。でも、ちゃんと見つけました!愛知縣が建てた立派な奴ですヽ(´∀`)ノ

▲城址碑②
さらに視界を巡らせる(キョロキョロする)と、別の所にも石碑がありました。近づいてみると「小田井城」と彫られていました!同じ場所に城址碑が複数あるのは、仲が悪い団体が別々に建てたのかと思ってしまいます。城址碑は移設された経緯もあるので、元々は別々の場所にあったかもしれませんが

◆歴史◆
織田敏定により築かれました。
織田敏定は清州城を本拠とする織田大和守家の当主です。斯波氏の家督争いで織田宗家(伊勢守家)と対立し、応仁の乱(1467-77)の原因となりました。この戦乱の後、織田宗家と尾張を半分ずつ分割することとなり、下四郡の守護代となりました。応仁の乱末期まで守護所は下津城にあり、清州城はその別郭という位置づけでした。別郭とは言っても5km程離れていますけど。この頃は織田宗家の織田敏広が拠点としていました。そのため、織田敏定軍に攻められ焼け落ちました。
乱が終結した1478年、それまでの下津城から清州城に守護所が移っています。ということで、それ以前の織田敏定は小田井城を拠点としていたと考えられます。織田敏定が清州城へ移ってからは、その弟・織田常寛が小田井城の城主となりました。織田常寛の家系は「藤左衛門家」と呼ばれ、清州三奉行を務めました。
織田藤左衛門家は、同格であった織田弾正忠家に早くから仕えていました。1542年には今川氏親と戦った小豆坂の戦や、齋籐道三と戦った大垣城の戦に参戦しています。大垣城の戦では、藤左衛門家の当主・織田寛維が討死しています。その後は織田信張が家督を継ぎ、織田信長の主だった戦に参戦しています。1577年の紀州攻めの後は、和泉半国の支配を任されていました。
1584年、廃城となりました。
織田信張の孫・織田信氏は、本能寺の変の後は織田信雄に仕えていました。その2年後に織田信氏が没すると、その弟である織田忠辰が家督を継ぎました。それから間もなく織田信雄が羽柴秀吉と対立し、小牧・長久手の戦となりました。この戦で織田忠辰は羽柴軍により小田井城を追われ、城はそのまま廃城となりました。後に織田忠辰は許され、豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えました。豊臣家が滅ぼされた後、藤左衛門家は津田姓を名乗るようになり、尾張藩士として続きました。
所在地:愛知県清須市西枇杷島町小田井2丁目
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