2013/03/20
小沢古城/神奈川県愛川町
天気予報では曇りのち雨。そして空はうす曇り。
出かけようかどうしようか迷う所でしたが・・・行ってきました。
場所は愛川町にある小沢古城と小沢城。
先週調べて「保険」で取っておいた近場の山城です。
県内にはもう1箇所「小沢城」があります。川崎市多摩区の方は「おざわ」と読み、愛川町の方は「こさわ」と読みます。

▲高田橋と小沢城・小沢古城
小沢古城と小沢城は相模川の西岸にあります。この辺は「小沢渡船場」があり、小田原と八王子を結ぶ要所でした。ココを抑えるのが目的と思われます。
相模川の東西両岸は切り立った崖になっています。城はその崖の地形を利用して築かれていました。

▲諏訪神社の入口
高田橋を渡ってすぐの右手に写真の諏訪神社があります。その入口には嬉しい説明板が


▲説明板
この板によると、小沢古城は横山党の小沢氏により築かれました。北には三栗山、西には沢があり、城には沢に架けられた橋から入ったとあります。今ではそのどちらもありませんが・・・

▲諏訪神社の隣にある環浄寺
諏訪神社のすぐ隣には環浄寺があります。ここは館の跡地で、背後の山を詰めの城としたようです。いわゆる殿谷戸形式ですね。平安時代末期に関東では良く見られた造りです。

▲南にある小沢城遠景
すぐ南には小沢城跡が見えます。川岸段丘の地形を利用していることがよく分かります。東と北が断崖、南にも谷があり、要害の地であることがわかります。小沢城については次のブログでじっくり書きます^^

▲諏訪神社から高田橋を臨む
諏訪神社から東を見ると、高田橋がよく見渡せます。交通の要衝・小沢渡船場を押さえるには都合のよい場所ですね。川岸ですがこの高さです。

▲登城口
諏訪神社の左脇には「ここから登れ」と言わんばかりの階段が・・・そういわれちゃぁ仕方がないな~そんな一人芝居を済ませていざ登城!

▲登城路
階段からちょっと進むと、そこから先はずっと細い稜線を歩きます。道?の両側は傾斜のキツイ斜面。歩いた形跡があるのは、私みたいな変人が他にも居る証拠ですねw

▲堀切だと思います
しばらく稜線を歩いていると、ザックリ削られたような所が数箇所あります。いわゆる堀切というやつですね。実際に歩いてみると、こんなことされると進みづらいったらありゃしないw事前に調べた時に「ほとんど遺構は無い」と書いてあったので、大収穫です^^

▲郭の跡か
更に進むと数箇所高くなっている所があり、その上はちょっとした平場となっていました。防衛の拠点として、尾根を登って来る敵を迎え撃つ場所なのかもしれません。稜線の両側はキツイ斜面。少数の兵士で大軍を防ぐにはとても都合が良い造りとなっています。

▲北の斜面が崩落しています
更に進むと・・・斜面が崩落している箇所に出ます。写真右側が直角にえぐれているのが分かると思います。その高さは20m位・・・
道は続いているのですが、その幅は1mもありません。「遺構は殆ど残っていない」と分かっている城跡。そんな危険な所を通ってまで進む価値もないと思い、ここで引き返しました。
◆歴史◆
小沢古城は平安時代末期に横山党の小沢氏により築かれました。横山党は相模原一帯を支配した秩父氏一族です。 源頼朝に従って平家討伐に功績があり、広大な地域を支配していました。
ところが1213年の和田合戦で和田氏側につき敗北。横山党はほぼ壊滅してしまいました。
代わって小沢に来たのが村山党の金子氏と考えられています。金子氏は武蔵国入間郡金子郷を本拠とし、全国各地に所領を持っていました。
小沢城が歴史に登場するのは、1477年にあった長尾景春の乱です。乱の詳細は割愛しますが、相模の領主達はこぞって反乱軍である景春側につきました。この乱の鎮圧をしたのが太田道灌です。
道灌は小磯城(大磯町)や溝呂木城(厚木市)を1日で攻め落としました。しかし、小沢城には手を焼き、攻め落とすのに2ヶ月かかりました。この時の城主は金子掃部助です。
当時の史料では「小沢の要害」と書かれています。それが小沢古城なのか小沢城なのかは今でもハッキリしていません。
翌年、豊島氏が小机城で蜂起すると、掃部助も小沢城で挙兵しましたが再び落城。奥三保(津久井の辺り)に落ち延びたそうで、その後も太田道灌の追討を受けています。
ですが、後北条氏の時代にも小沢の地は金子氏が治めていました。津久井城は早くから後北条氏の支配を受けていました。そのため、後北条氏が武蔵を攻略した際に何らかの手柄を立てて復帰したのかもしれません。道灌に追われた旧領主達に「元の土地を与える」と言えば、簡単に味方にできそうですから。
・・・とまぁ、勝手に色々想像を膨らませていますw
その後、歴史の表舞台には登場しません。後北条氏と運命を共にしたのかもしれません。城跡は東側が道路建設のため削られ、北と西が造成のため削られ・・・殆ど残っていないそうです。現在は館跡とされる環浄寺と、その背後の山の一部が残っているだけです。
所在地:神奈川県愛甲郡愛川町角田
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