2015/09/13
蜂須賀城/愛知県あま市
蜂須賀城は蓮華寺付近にありました。訪問日は2014年8月2日です。

▲蓮華寺
その名の通り蜂須賀氏のお城だったということで、ワクワクしながら訪ねました。目印は大きなお寺なので、すぐに見つけることが出来ました。入口には写真のように案内板があり、すぐにここだとわかるようになっています


▲案内図 拡大表示
上の案内板に載っている案内図です。蓮華寺の他に、蜂須賀氏の館跡が左下に描かれています。こちらにも石碑があるそうなので、石碑好きな方は是非訪ねてみて下さい。

▲石碑
蓮華寺の山門の手前左側にちょっとしたスペースがあり、大きな石碑が3つ並んでいます。左から「贈 従三位」「蜂須賀小六正勝公碑」「蜂須賀城趾」と彫られています。遺構が無いお城でも、これ見つけるとテンション


◆歴史◆
蜂須賀氏の居城でした。
蜂須賀氏の出自は不明ですが、鎌倉時代から蜂須賀の地を支配していました。ただし、事績がわかっているのは蜂須賀小六(正勝)の父・正利の頃からです。蜂須賀正利ははじめは尾張守護の斯波氏、後に齋籐道三に従ったとされます。
正室は津島四家七苗字の頭である大橋氏から迎えていました。大橋氏の居城・奴野屋城から北東に約5kmと近所だったこともあるかもしれませんが…織田信秀が婚姻関係のあった大橋氏を通じ、蜂須賀正利を懐柔しようとしたのかもしれません。織田弾正忠家の本拠地・勝幡城は、蜂須賀城と奴野屋城のちょうど中間にありました。
しかし、蜂須賀正利は織田信秀と争い敗れました。これが1550年頃とされています。蜂須賀正利の没後(戦死なのか病死なのか不明)、蜂須賀氏は領地を追われました。その領地は蜂須賀正利の正室の実家である大橋氏のものになったとされています。
蜂須賀正利は安井重幸の娘を側室に迎えていました。名前は安井御前といい、正利の没後は居場所が無くなって実家の宮後城へ戻りました。この時、安井御前の子で蜂須賀正利の嫡男・小六を連れていました。蜂須賀小六は安井重幸の家督を継ぎ、宮後城主となっています。
「蜂須賀小六」というと、一般的には蜂須賀正勝を指します。ただ「小六」は代々の名乗りだそうで、父の正利、子の家政も名乗っていました。通りがよいので、以後記す「蜂須賀小六」は正勝の事とします。
宮後城は尾張北部で木曽川の近くにありました。蜂須賀正利が齋籐道三に仕えたのは、この縁によるのかもしれません。蜂須賀小六は川並衆として平時は木曽川の水運業、戦時は傭兵部隊を率いていました。特定の主君には仕えず、独立勢力を保っていました。
安井重幸は浅野氏に養子に出しており、嫡男・長吉が後の浅野長政となっています。浅野家といえば、豊臣秀吉とはかなり近い身内として有名です。浅野長勝は安井重幸の子に家督を継がせた他、杉原定利の2人の娘を養女としています。その次女・ねねが嫁いだのが木下藤吉郎です。
安井氏の事績はわかりませんでしたが、これらの挙動から以下のように推測します。はじめ齋籐道三に従った後、旗色が悪くなって織田信長に従ったのかもしれません。養子を送った浅野長勝は、織田信秀・信長のもとで弓頭を務めていたからです。
蜂須賀小六は豊臣秀吉の側近として有名ですが、かなり近い親類でもありました。また、若い頃の豊臣秀吉は、蜂須賀小六の父・正利に仕えていた時期があったそうです。墨俣一夜城での蜂須賀小六の活躍は有名ですが、そこに至るまでに色々あったんですね!いろいろ調べていると、こんな感じで繋がってきて楽しいですね♪
所在地:愛知県あま市蜂須賀(蓮華寺)
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