2015/09/12
祖父江城/愛知県稲沢市
祖父江城は神明社の辺りにあったと考えられています。訪問日は2014年8月2日です。
▲神明社
城跡とされる神明社です。立派な鎮守の杜が目印です。お城だった事を示すものは何もなし。往時は鬼門除けの社として祀られていたのでしょうか?

▲永張寺
すぐお隣にはお寺もあります。廃仏毀釈まではお寺と神社がセットであることが多かったですからね。七福神巡りでチョット有名な所で、永張寺は布袋尊なのだとか。…へぇ~っ、て感じですwww

▲近くにある溝?
神明社・永張寺の前の道の向かい側にはこんな感じの水路の跡があります。…水路の跡に見えますけど、どうなんでしょう?きっと水路ですよね?www妄想は勝手に思いっきり膨らんで、堀の跡に見えちゃいました。近所にブラックジャック並に腕のいい眼科さんがあったら紹介して下さい

◆歴史◆
1466年頃、祖父江久豊により築かれました。
この年代は応仁の乱直前ですね。尾張では斯波義敏と斯波義廉が家督を争っていました。発端は、斯波氏宗家である武衛家で当主の早死にが相次いだことです。斯波義敏は一門筆頭格であり、斯波義健が18歳で没したため斯波武衛家を継ぎました。宗家が混乱していた当時、斯波家中を支えていたのが一門と家臣筆頭の甲斐常治でした。この両者は相性が悪く、斯波義敏が主君となっても甲斐氏との軋轢は残りました。しかし、両者が衝突したことで将軍・足利義政の逆鱗に触れ、斯波義敏は家督を追われました。そこで斯波武衛家に送り込まれたのが斯波義廉でした。斯波義廉は斯波氏と同じ足利一門である渋川氏の出でした。このまま斯波義廉ひと筋で世が流れれば、それで斯波家中は1本にまとまったのでしょう。しかし、やがて斯波義敏が将軍に赦されて復帰したため、両者が争うこととなりました。
…ザックリ書くとこんな感じでしょうかw
祖父江は地図で見ると木曽川を挟んで美濃の対岸に位置しています。おそらくは美濃の齋籐妙椿に備えた配置と思われます。齋籐妙椿は美濃の守護代で、実質的に美濃一国を仕切っていました。隣国尾張での騒動にも介入しており、その時の状況によってどちらかに味方していました。妙椿の挙動が一貫していなかったことで、尾張では常に美濃に気を配る必要があったんですね。
この斯波氏の内紛には、当然守護代の織田氏も絡んでいました。前当主・斯波義敏には分家の織田敏定、当主・斯波義廉には宗家の織田敏広がつきました。ある意味、順当な組み合わせと言えますw応仁の乱は斯波義敏側に有利な状況で終息しました。そのため織田敏定は尾張下四郡の守護代となり、清州城を居城としました。地理的に近いので、祖父江氏はこちら側に味方したのではないかと思います。
1600年、祖父江信勝が竹腰城へ移りました。
祖父江氏がどのような活躍をしたのかはわからず。関ヶ原の戦の頃は祖父江信勝が福島正則に仕え、戦功により竹腰と西島を与えられています。祖父江信勝は竹腰に城を築き、そちらへと移りました。あちこちに「祖父江信勝は祖父江久豊の子」と書かれていますが…祖父江久豊が祖父江城を築いてから134年経っています。少なくとも2、3代は世代が離れていると思いますw祖父江には赤目城主・横井時泰の弟・横井時久が移って来ました。
横井氏は北条得宗家(鎌倉幕府の執権を務めた家柄)の末裔を称しています。最後の執権・北条高時の子・時行の子孫を称する家系は各地にあるようです。北条時行の子は信濃から三河、尾張と逃れ、蟹江を経て赤目に辿り着きました。室町時代の初め頃は北朝方(幕府)と南朝方(朝廷・北条残党)とが争っていました。赤目のある津島地方は南朝方だったので、生き残れたのでしょうネ。横井氏は尾張藩では鷹匠頭を務めたそうです。1615年に一国一城令が出されているので、この頃までには廃城になったと思われます。
所在地:愛知県稲沢市祖父江町(永張寺、神明社)
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