2015/08/24
勝幡城/愛知県稲沢市
勝幡城は織田信長が生まれた所、という説が有力なお城です。訪問日は2014年8月2日です。
▲少し離れた所から
ここに来る時はそりゃもうドキドキしました。きっとどこかにある織田信長の生誕地。ここから英雄譚が始まった、、、可能性大なんですね


▲城址碑と説明板
ただ、思っていた以上に規模がそれ程でもないのが意外でした。遺構は全く残っておらず、そこがお城だったと示す城址碑と説明板があるのみ。あれだけの英雄が生まれ育った場所なら、誰もが興味を持ち訪れると思います。まぁ、早い時期に潰されちゃったのでしょうけど。

▲その先にある橋
そのまま真っ直ぐ道を進むと、日光川に架かる橋があります。この川、堀の役目をしてますな!・・・などと、誰でも思いつくことを吐いて見ますw

▲復元図
しかし、この橋はただの橋ではありません。なんと、勝幡城の復元図が描かれているのです。・・・これ目当てに来た感じですwどうせなら、城跡の説明板に載せて欲しいもんですが。
◆歴史◆
平安時代末期に大中臣安長が館を構えました。
大中臣安長は「おおなかとみのやすなが」と読みます。コピペですがw1156年に尾張権守となり、海部郡に館を構えました。1175年から5年かけて、娘婿の豊後守親実とともに一切経を書写したのだそうです。その内の4954巻が現存し、重要文化財に指定されています。
1520年頃、織田信定により城が築かれました。
織田信定は織田信長の祖父です。清洲城を本拠とする織田大和守家の庶流で、三奉行の一人でした。この頃に津島湊を手に入れ、勢力拡大の原動力となりました。この時に地名を「塩畑」から「勝幡」に変更しました。1527年頃、織田信秀に家督を譲って隠居し、1538年頃没したとされます。
1532年、織田信秀が那護野城へ移りました。
今川氏親の子・今川氏豊から那古野城を奪い、居城を移しました。これには1538年説もあります。今川氏は尾張守護だった時期があり、その頃から一族が那古野に住んでいました。その一族は那古野氏を名乗っていましたが、駿河の今川氏親が氏豊を養子として送りました。今川氏親は斯波義達の領国だった遠江を奪い、更には三河の支配権も争っていました。そして1515年に斯波義達と戦って捕虜とし、坊主にして尾張に追い返していました。この勢いに乗り末子の今川氏豊を那古野に送り、城を築いていたのです。那古野城を奪った織田信秀は、本拠を那古野城へ移しました。勝幡城は武藤雄政を城代としました。
1534年、織田信長が生まれました。
那古野城生誕説もありますが、近年では勝幡城で生まれた説の方が有力なのだそうです。織田信秀は1539年に古渡城を築いて移ると、幼子の信長を那古野城主としました。その後の織田信秀は、尾張統一も成し遂げない内に美濃や三河に出兵します。
美濃では守護・土岐頼芸と斎藤道三が争っている頃でした。織田信秀は土岐頼芸に味方し、一時は大垣城を攻略しました。
三河では統一を成し遂げた松平清康(徳川家康の祖父)が守山城へ攻め寄せましたが・・・陣中で家臣に斬られ、松平家中の統制が一気に崩れました。この機に乗じて三河へ攻め込み、岡崎城の手前にある安祥城を攻略しました。まさに飛ぶ鳥も落としそうな勢いでしたが・・・
美濃では斎藤道三の逆襲に遭い、三河へは駿河の今川義元が兵を出すようになりました。一時は支配下に置いた大垣城や安祥城を奪還され、織田信秀は次第に劣勢になっていきました。岩倉城には上四郡の守護代・織田信安、清洲城には下四郡の守護代・織田信友が健在でした。尾張統一を成し遂げぬまま、1552年、織田信秀は世を去りました。・・・なんて書きつつ、織田信秀の没年ですら1549年、1551年など諸説あります。
1555年、城代の武藤掃部が野府城へ移りました。
織田信長は下四郡の守護代・織田信友を倒すと、居城を清洲城へ移しました。そして、勝幡城の城代である武藤掃部を野府城(一宮市)へ移しました。これにより次第に荒廃した、とあちこちに書かれているのですが・・・一族の誰かを置いたのではないかと思ったりします。そこの所はサッパリわかりませんけどwお城の遺構が無いことから、洪水で流されてしまったかもしれませんね

所在地:愛知県稲沢市平和町六輪
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