2015/09/10
陸田城/愛知県稲沢市
陸田城(くがたじょう)の城址碑は、田んぼの真ん中にあります。訪問日は2014年8月3日です。
▲周囲の状況
陸田城跡はすっかり開墾されており、田んぼとなっています。そのため、正確な位置もよくわかっていないのですが…この城址碑から東の線路辺りまでが城域だったと考えられています。

▲城址碑
よく見る写真はこんな感じです。城址碑も古くからあったものを、改めて台を造って乗せた感じがします。昔っから「ここお城だったんだぁ~」って想いを馳せる人が居たんですね!
◆歴史◆
陸田市左衛門のお城でした。
『尾張志』に織田信雄に仕えたとだけ書かれています。また『織田信雄分限帳』では「ヒムロ、サカタ二百六十貫文」と記されています。「ヒムロ」というのが陸田城周辺、「サカタ」は坂田城周辺を指しています。陸田市左衛門は2つのお城の城主だったんですね!とまぁ大袈裟に書きましたが、わかったのはこれだけです

築城年代や築城者などはサッパリわかりません。なので、周囲の状況から勝手に推測してみます。いつもの悪い癖ですwww
『織田信雄分限帳』に陸田市左衛門が登場しています。『尾張志』でも織田信雄に仕えていると書かれています。「織田信長に仕えた」とは書かれていないんですよね!なので、本能寺の変のあった1582年から改易された1590年まで陸田城主だったと思います。
もう1つ持っていた坂田城ですが、橋本氏や溝口氏の城とかなりご近所です。陸田城からはかなり遠く、南西に約8kmも離れています。おそらく何かしらの功により与えられたのだと思います。この年代で思いつくのは小牧・長久手の戦くらいですが…
橋本氏が肥後に移ったのは1600年前後なので、橋本氏の領地が空いた訳ではありません。溝口氏は丹羽長秀に仕え、1581年に若狭国高浜城主となっています。これで空いた土地を織田氏が直轄し、功があった陸田氏に与えた…のでしょうか?与えたといっても、元溝口氏の領地をバラバラに小分けにしたのでしょうけどw坂田城を調べても、ここと同じく「陸田市左衛門の城だった」としかわかりませんでした。
江戸時代の陸田村は、貧しい村だったと記録されています。小規模農家ばかりで豪農が居なかったということです。陸田姓の方の分布をググってみると、東京・神奈川・埼玉に集中しています。これらのことから、1590年に織田信雄が改易された時に一緒に関東に移ったと思われます。
所在地:愛知県稲沢市陸田丸之内町
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