2015/08/23
儀長城/愛知県稲沢市
儀長城は川沿いの道沿いにありました。・・・平たく言うと「橋の脇」です(爆)訪問日は2014年8月2日です。
▲県道の橋の脇にある石碑と説明板
はじめはすぐ南にある貴船神社に行きました。城跡がお寺や神社になっていることが多いからです。しかし、城址碑等の城跡セットが見つからず・・・場所がちょっと違っていました。城域ではあったのでしょうけど(強がりです

そこで、iPhoneでインターネットを検索して画像を見ると・・・川沿いに石碑が写っていました。貴船神社も川沿いでしたが、周りの風景を参考にしながら近所を徘徊。少し北に進むと川沿いに進めなくなったので、少し迂回して県道まで出ました。すると、橋の脇にありましたヽ(´∀`)ノ「石碑1つ撮って次へ」とナメてましたが、結構ウロウロする羽目となりました。なので、参考になればと引いたアングルから撮っています。

▲石碑と説明板
やった、城址碑だ!と思って近づいてみると・・・石碑も説明板も「正楽寺」についてのものでした。儀長城は正楽寺の跡地に築かれていたのですが、どうせなら「儀長城」のも欲しかったです。
◆歴史◆
儀長城は正楽寺の跡に築かれました。正楽寺は尾張国分寺の末寺で、奈良時代に建立されました。国分寺には東西南北に末寺があり、「四楽寺」と呼ばれていました。ちなみに、正楽寺は国分寺の西にありました。
橋本氏が正楽寺跡に儀長城を築きました。
橋本氏が尾張に来たのは応永年間(1394~1428年の間)とされています。尹良親王の子・良王を守り、津島四家七苗字と一緒に尾張に来ました。彼らは南朝方として、北朝勢力と戦っていました。儀長城は橋本氏の居城・片原一色城の南東に位置し、三宅川沿いに築かれました。片原一色城の支城は他に井堀城と三宅城があり、いずれもこの川沿いにありました。推測ですが、南東側からの攻撃に備えたものと思われます。
橋本氏は戦国時代は織田信長に仕えました。橋本一巴は鉄砲の名人として名を馳せ、織田信長が師事する程でした。1558年に弓の達人・林弥七郎と鉄砲隊弓の一騎討ちを行い、相討ちとなっています。
その子・橋本道一も鉄砲の達人だったらしく、朝鮮出兵の際に鉄砲頭に任命されています。しかし、海を渡る前に肥前・名護屋城で病没したそうです。その後の橋本氏は1600年頃肥後に移り、加藤清正に仕えたそうです。
1615年、廃城となりました。
橋本氏が去った後誰が城主となったのかはわからず。ただ、元和の一国一城令で廃城になったと伝わるのみです。現状は、お城以前にあった正楽寺跡を示す石碑と説明板があるだけです。
所在地:愛知県稲沢市儀長町
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